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ユージーン・B・フラッキー

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ユージーン・B・フラッキー
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“ラッキー”ユージーン・ベネット・フラッキーEugene Bennett Fluckey, 1913年10月5日-2007年6月28日)は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将名誉勲章受章者。潜水艦バーブ (USS Barb, SS-220) の艦長として空母雲鷹撃沈、樺太攻撃など数々の戦功を挙げた。

概要 ユージーン・ベネット・フラッキー Eugene Bennett Fluckey, 渾名 ...
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生涯

要約
視点

前半生

“ラッキー”こと、ユージーン・ベネット・フラッキーは1913年10月5日にワシントンD.C.で生まれた。ウェスタン・ハイスクール英語版およびペンシルベニア州マーサーズバーグ英語版マーサーズバーグ・アカデミーで学び、海軍兵学校(アナポリス)受験に備えてワシントンのコロンビアン・プレパラトリー・スクールに通う。フラッキーは1931年にアナポリスに入学し、1935年6月に卒業して少尉候補生となる。卒業年次から「アナポリス1935年組」と呼称されたこの世代には、太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル(アナポリス1904年組)の息子で、潜水艦ロバロー (USS Robalo, SS-273) 艦長のマニング・キンメル[2]シーライオン (USS Sealion, SS-315) 艦長として戦艦金剛を撃沈したエリ・トーマス・ライヒ英語版[3]らがいる。

卒業後のフラッキーは戦艦ネバダ (USS Nevada, BB-36) に配属され、次いで駆逐艦マコーミック英語版 (USS McCormick, DD-223) に乗艦した。1938年6月、フラッキーはコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に進み、受講後はS-42英語版 (USS S-42, SS-153) 配属を経て1938年12月にボニータ (USS Bonita, SS-165) 勤務となり、5回の哨戒を経験する。1942年8月にボニータを離れてからはアナポリスで船舶工学の高等課程を受講した。

「バーブ」艦長

1943年11月、フラッキーはニューロンドンに赴き、太平洋艦隊潜水部隊に配属されるバーブの艦長に就任することを通告された。バーブはここまで大西洋太平洋で7回の哨戒を経験し、4月25日にミッドウェー島に帰投したところであった。フラッキーは4月27日に着任し、以後バーブの艦長として5回の哨戒を行って「第二次世界大戦での偉大な潜水艦長」の一人として地位を確立することとなった。1945年7月22日夜には、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて16両編成の列車を吹き飛ばしたが[4]、これは第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による「上陸作戦」として記録された。フラッキーは上陸作戦を行うにあたり、艦のあらゆる配置から志願者を求め、またボーイスカウト出身者を特に選んで編成した。かくて編成された「上陸部隊」は、ポール・サンダース英語版を筆頭にウィリアム・ハットフィールド、フランシス・セイヴァー、ローレンス・ニューワード、エドワード・クリングスミス、ジェームズ・リチャード、ジョン・マークソンおよびウィリアム・ウォーカーといった顔ぶれで編成され、ハットフィールドは線路の下に爆薬を仕掛け、遠隔操作で爆破できるようコードを張り巡らす担当に就いた。

フラッキーはバーブでの哨戒のうち、11回目の哨戒を除く4つの哨戒での功績で海軍十字章を授与された。11回目の哨戒では中国沿岸部42キロ範囲内、水深約37メートルの浅海にあった2つの船団に対して後方から攻撃を仕掛け、2隻の護衛艦が追跡してきたのを受けでバーブは通常比150パーセントのエンジン出力を行って23.5ノットの高速で海域を抜け出した。このフラッキーの顕著で大胆な攻撃に対して、海軍十字章より上の名誉勲章が授けられた。また、8回目と11回目の哨戒に対しては殊勲部隊章英語版を、12回目の哨戒に対してはさらに海軍部隊表彰英語版も受章した。フラッキーは、1992年に出版した自著 "Thunder Below!" でバーブでの日々を次のように述べている。「砲弾、爆弾および爆雷をもってバーブを痛めつけようとも、バーブはそのたびにパープルハートをもらうことなく潜り抜けて、いつでも戦う準備が整っていた」[4]

戦後のキャリア

1945年8月、フラッキーはグロトンに赴き、建造中のドッグフィッシュ (USS Dogfish, SS-350) が竣工した暁には艦長に就任することを聞かされる。しかし、ジェームズ・フォレスタル海軍長官の命で艦長の話は取り消され、代わって統合軍計画に参画させた。1945年12月には海軍作戦部長に就任したチェスター・ニミッツ元帥のもとで私的副官と情報作戦参謀に就任した。2年後の1947年6月9日には海上勤務に戻り、シュノーケル装備とGUPPY II 改修が予定されていたハーフビーク (USS Halfbeak, SS-352) の艦長となった。1949年6月、フラッキーは大西洋艦隊潜水部隊に転じ、潜水艦予備部隊を指揮した。翌1950年には大西洋艦隊潜水部隊司令官ジェームズ・ファイフ英語版大将(アナポリス1918年組[5])の首席秘書を務め、1950年10月1日から1953年7月までの間は在ポルトガル海軍駐在武官を務めた。ポルトガル政府はフラッキーのこれまでの功績に対して、自国以外の武官に対しては初めてとなる Medalha Militar を授与された。ポルトガルから帰国後の1953年9月には潜水母艦スペリー英語版 (USS Sperry, AS-12) の艦長に就任する。1955年10月14日から1956年1月14日までの間は第7潜水戦隊、のちの第7潜水グループの司令を務め、アナポリスで電気工学部門の筆頭講師も勤めた。

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最晩年のフラッキー(左)(2006年)

1960年7月、フラッキーは時のドワイト・D・アイゼンハワー大統領の推薦を経て少将に進級し、10月には第4水陸両用戦グループ司令官になった。1961年11月には、ワシントンの海軍調査査察委員会で委員長となり、1964年から1966年の間は、太平洋艦隊潜水部隊英語版司令官の座に就いた。その後、1966年7月に海軍情報局ディレクター、1968年にポルトガルへの軍事顧問団の団長となったあと、1972年に少将の地位で退役した。1979年に42年間連れ添った妻のマージョリーに先立たれたが、ポルトガル出身のマーガレットと再婚して二番目の妻とし、以降数年の間ポルトガルで孤児院をマーガレットともに運営した。2007年6月28日、フラッキーはアナポリスのアン・アルンデル医療センター英語版で死去した[6][7]。享年93歳。フラッキーの墓は、母校アナポリスの敷地内にある海軍兵学校墓地英語版に埋葬されている。

フラッキーは1948年にボーイスカウトからイーグルスカウト英語版を受章しており、名誉勲章とイーグルスカウトの双方を所持している9名のうちの一人として記録されている。

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記録

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  なお戦果のうち撃沈隻数のランキングでは4位であるが、トン数順位のランキングでは1位となる。この場合の2位は93,824トンを記録したタング (USS Tang, SS-306) 艦長のリチャード・オカーン(アナポリス1934年組)である[18]。オカーンは撃沈隻数では24隻を記録しており、撃沈隻数のランキングでは1位である[18]

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受章歴および略綬

A light blue ribbon with five white five pointed stars
Gold star
Gold star
Gold star
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フラッキーは名誉勲章と海軍十字章のほかに、金星章英語版3個、海軍殊勲部隊章リボンおよび海軍部隊表彰リボンを受章し、少将時代にかけてアメリカ防衛従軍記章とフリート・クラスプ、太平洋戦線従軍章アメリカ本土防衛従軍章第二次世界大戦戦勝記念章および国土防衛従軍章を受章した。

このうち、名誉勲章の受章理由を下に掲げる。

彼の指揮するバーブは1944年12月19日から1945年2月15日にかけての11回目の哨戒で作戦した中国東海岸部において、落命の可能性とアメリカ軍軍人としての義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は「戦闘配置!魚雷発射用意!」の号令を出して、水深9メートルの海域で2.7キロの範囲にいた敵船に対して艦首発射管の魚雷を発射した。すぐさま艦尾発射管の魚雷も発射し、攻撃の結果、8本の魚雷のうち6本が命中し、弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、ここに最高の栄誉を与えるものである。

脚注

参考文献

外部リンク

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