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リチャード・ハワード (第4代エフィンガム伯爵)
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第4代エフィンガム伯爵リチャード・ハワード(英語: Richard Howard, 4th Earl of Effingham FSA、1748年2月21日 – 1816年12月10日)は、イギリスの貴族、政治家。1784年から1790年まで庶民院議員を務めた[1]。1748年から1791年までリチャード・ハワード閣下(Hon. Richard Howard)の儀礼称号を使用した[2]。
生涯
第2代エフィンガム伯爵トマス・ハワードと妻エリザベス(1725年2月18日 – 1791年10月13日、ピーター・ベックフォードの娘)の次男として、1748年2月21日に生まれ、同日にセント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエアで洗礼を受けた[3]。1755年4月12日から1762年までイートン・カレッジで教育を受けた[3]。1763年11月21日にsub-brigadier and cornetとしてホース・ガーズ第1中隊に入隊、1768年1月21日にbrigadier and lieutenantに昇進した後[2]、1771年に陸軍から引退した[1]。
1784年3月29日にシャーロット王妃の秘書官および監査官(Secretary and Comptroller)に任命され、1814年4月ごろまで務めた後、1814年5月9日にシャーロット王妃の会計長官(Treasurer)に任命され、1816年に死去するまで務めた[4]。
1784年イギリス総選挙でステイニング選挙区から出馬した[5]。ステイニングでは第4代準男爵サー・ジョン・ホニーウッドの勢力が少なくとも1議席を掌握しており[5]、ホニーウッドが政界でハワードの兄にあたる第3代エフィンガム伯爵トマス・ハワードとのつながりをもっていたためハワードを当選させた[1]。庶民院で演説した記録はなく、1788年5月にサー・エリヤ・インペイの弾劾に賛成票を投じ、同年から1789年にかけての摂政法危機で小ピットを支持した[1]。1790年イギリス総選挙をもって議員を退任した[1]。1791年11月19日に兄トマスが死去すると、エフィンガム伯爵位を継承した[3]。貴族院ではトーリー党に同調して投票することが多かった[3]。
1784年6月10日、ロンドン考古協会フェローに選出された[6]。1803年9月7日、シェフィールド志願兵連隊隊長に任命された[2][7]。
1816年12月10日にロザラム近くのザ・グランジ(The Grange)で死去、ロザラム教会に埋葬された[3]。エフィンガム伯爵位は廃絶、エフィンガムのハワード男爵位は5代男爵の子孫にあたるケネス・アレクサンダー・ハワードが継承した[3]。
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家族
1785年6月14日、ハリエット・エリザベス・マーシュ(Harriet Elizabeth Marsh、1827年3月7日没、ジョン・マーシュの娘)と結婚したが[3]、2人の間に子供はいなかった[8]。
出典
外部リンク
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