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ロズモーヴシクィイ家

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ロズモーヴシクィイ家
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ロズモーヴシクィイ家ウクライナ語Розумовські)あるいはラズモフスキー家ロシア語Разумовские[1]は、ウクライナ・コサック氏族に由来するロシア帝国およびオーストリア・ハンガリー帝国伯爵家ならび公爵家である。

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ロズモーヴシクィイ家の紋章

概要

ロズモーヴシクィイ家は、17世紀後半、ヘーチマン国家キエフ連隊コゼレツィ百人隊に属していた平のウクライナ・コサック、ヤーキウ・ローズムに由来する。「ローズム」はウクライナ語で「知恵」を意味する言葉で、「何たる頭、何たる知恵!」がを飲むヤーキウの口癖であったから、「ローズム」は彼の渾名になったという[2]。ヤーキウには長男のイヴァン(?-?)と次男のフルィホーリー(?-1730年)がいたが、次男の分家で生まれたオレクシー英語版ロシア語版ウクライナ語版1709年1771年)とクィルィーロ1728年1803年)はロシア帝国の伯爵となり、「ローズム」の名字を貴族風な「ロズモーヴシクィイ」の名字に改めた。二人の伯爵は自分の血筋を隠していなかったが、側近はロズモーヴシクィイ家はポーランド・リトアニア共和国の貴族、ロジジンスキに家に起源を持つ家柄である、という美化された系譜を作った[2]

オレクシーには子供がいなく、弟のクィルィーロには六男六女がいたので、後者はロズモーヴシクィイ家の跡継ぎとなった。しかし、クィルィーロの長男オレクシー(1748年1822年)の子供は早死にし、孫がなく、さらに、五男のフルィホーリー(1759年1837年)はオーストリア・ハンガリー帝国に定住したことによりロシア帝国がフルィホーリーの子孫をロズモーヴシクィイ家の跡継ぎとして公認しなかったので、ロシア帝国でのロズモーヴシクィイ家は絶えてしまった。一方、フルィホーリーはオーストリア・ロズモーヴシクィイ家の開祖となり、彼の子孫は20世紀前半までオーストリア・ハンガリー帝国で貴族の身分を保ち続けた。オーストリア・ロズモーヴシクィイ家の流れは現在に至るまで絶えておらず、ロズモーヴシクィイの姓を名乗る数人はオーストリアの美術芸術界において活躍している。

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系図

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脚注

参考文献

外部リンク

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