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ワジハルファ
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ワジ・ハルファ(アラビア語: وادي حلفا、Wādī Ḥalfā)は、スーダンの北部州に属する同国最北の町。2008年の人口は1万8332人[1]。
地理
ナイル川の沿岸、ヌビア湖(ナセル湖のスーダン領地域)の湖畔にある。 ヌビア砂漠の真ん中に位置する。 ヌビアの遺跡が多く、アスワン・ハイ・ダムが引き起こす洪水から守る活動が続いている。
交通
エジプトとの国境に位置し、下流のエジプト領アスワンまでフェリーが運航している。また、南スーダンのワーウから首都ハルツームを経由するスーダン鉄道の最北の駅がある。このため、陸路で国境を越える際のメインルートとなっているが、実際には両国間の往来は空路が多く、陸路の便数は鉄道・フェリーともに非常に少ない。
歴史
要約
視点

古代からの定住が考古学的に判明している[2]。
エジプト中王国時代(紀元前2055年頃~紀元前1650年頃)からアエギュプトゥス(ローマ領エジプト)時代(紀元前30年~641年)にかけて、エジプトの植民地のブヘンが存在した[3]。
19世紀、近代都市のワジ・ハルファが建設されると、ナイル川沿いにアスワンと結ばれる港湾都市になった[4][5]
1820年、オスマン帝国領エジプトの南方征服では、南に向かう軍の短期滞在地になった。
1866年、エジプトとの間に電信が開通した。
1877年、ケルマとの間に鉄道が開通した[4][6]。 スーダン鉄道が延びるにつれ、アシュートのすぐ南まで航行しエジプトの鉄道網に接続出来るワジ・ハルファの価値は高まったが、代わりに旧キャラバン宿のコロスコの価値は低下した。
1881年、マフディー戦争が始まり、国境で頻繁に戦闘が起きるようになった。
1889年、アブド・アル・ラフマン・アル・マフディー軍がトスキの戦いに向かう途中で立ち寄った[4]。 その後キッチナー率いるイギリス領エジプト軍がマフディー軍を倒すために一時滞在した。
1897年、イギリスの戦争遂行に伴って延びた鉄道がアトバラに達した。

1899年、戦争が終了し、スーダン(現在の南スーダンを含む)は英埃領スーダンとなった。 また、鉄道が首都ハルツームに達した。
1911年、ナイル川監視所が設置された。

第二次世界大戦では連合国の軍事郵便局が置かれた。
1959年11月8日、アスワンダムの建設によって周辺の水没が決まった。 約5万2000人が1964年までの退去を義務付けられた[8]。
1960年10月23日~24日、最も被害を受けたヌビア人がデモを行った。 26日には首都ハルツームにもデモが飛び火したが、警察は催涙ガスで鎮圧した[8]。 政府は直ちにワジ・ハルファに戒厳令を発令し、国内他地域との連絡を断絶した。 主に学生から成るハルツームでの抗議によって、カイロ大学ハルツーム校が一時閉鎖され、約50人が逮捕された[8]。
1964年、ダムは完成し、旧市街地は洪水で破壊された。 町の殆どが移転した。
1965年時点で、移転後の新ハルファの人口は3200人だった[8]。
気候
ヌビア砂漠では典型的な砂漠気候(BWh)に属する。 一年を通して快晴が多く、最高記録は4300時間/年である[11] これは理論的に有り得る時間の97~98%に当たる[12]。 年間平均降水量は0.5mmで[11]、雨の全く降らない年も多い。 季節は長く暑い夏と、短く暖かい冬が訪れる。 年間平均気温は27℃で、5~9月に限れば平均最高気温は40℃を超える。 年間潜在蒸発量は世界一で、5930mm/年に及ぶ[13]。
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経済

農業が中心である[4]。 中国人が魚の加工工場を建てた。
関連項目
出典
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