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三好重臣

1840-1900, 幕末~明治期の長州藩士、陸軍軍人 ウィキペディアから

三好重臣
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三好 重臣(みよし しげおみ、1840年11月14日天保11年10月21日)- 1900年明治33年)11月28日)は、明治期の日本陸軍軍人[1]。最終階級陸軍中将子爵。幼名は軍太郎。別名は会田春輔

概要 三好 重臣, 生誕 ...
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三好重臣

経歴

長州藩士、三好五右衛門の五男として生まれた。1863年奇兵隊に入隊して参謀職を務めた。1867年、振武隊総監に就任。1868年戊辰戦争では越後方面に進出して武功を挙げている。

明治維新後は新政府のもとで、1871年陸軍大佐となり、東北鎮台司令長官、仙台鎮台司令長官、大坂鎮台司令長官を歴任。1877年西南戦争では、征討第2旅団司令長官として出陣したが、敵に敗れて負傷している。1880年、陸軍中将となり、東部監軍部長、熊本鎮台司令官、東京鎮台司令官、第1師団長、監軍などを歴任し、1894年予備役に編入された。さらに、枢密顧問官1897年まで務めた。1884年7月7日に子爵に叙せられる。1900年、60歳で死去。

なお相続に関して重臣は、放蕩の激しかった長男三好太郎を廃嫡し、太郎の嗣子三好東一に子爵家を相続させている。

家族

  • 後妻 - 梅子(1859-1940)。宮城県平民及川林作三女[2]
  • 嫡男 - 太郎(1863-1938)。太郎の友人だった南方熊楠の日記や双方の書簡によると、太郎は父の後妻を誘惑したという理由で1885年に勘当同然に米国へ留学させられ、ミシガン大学法科に入学、下宿していた同大学医学部助手ブルワー(Francis W. Brewer、ポルトガル出身)の娘アグネスと懇ろとなり、1890年1月に長女・琴子、翌1891年3月に長男・東一を出産、同年5月に妻子を連れて帰国した[3]。同年7月1日に日本で正式に結婚するが、これは華族国際結婚の最初となった[4]。1896年に太郎は廃嫡となり、会田太郎に改名、大阪に転居した[3]
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栄典

位階
勲章等

脚注

外部リンク

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