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三浦数平
日本の弁護士、政治家 (1871-1929) ウィキペディアから
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三浦 数平(みうら かずへい、明治4年1月16日[1](1871年3月6日) - 昭和4年(1929年)9月7日)は、日本の政治家。大分市長、衆議院議員(立憲政友会)。大分県士族[2]。旧姓桜井[3]。
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経歴
明治28年(1895年)、明治法律学校卒業[2]。朝日新聞記者から判検事試験に合格して司法官試補となり、次いで大分町で弁護士、特許弁理士の事務所を開業[3]。
先代貞一の養子となり明治37年(1904年)家督を相続す[2]。大分町会議員、同市会議員、同第3代議長[4]、県会議員を務め[3]、1917年8月9日、大分市長に就任した[5]。
人物像
城南女学校(福徳学院高等学校の前身)を創設した幸フクと親交があり、昭和2年(1927年)8月に財団法人城南女学校(財団法人城南学園の前身)が設立されると、初代理事長を務めた[7]。
大庭勝一(義仲寺史蹟保存会常務理事)によれば「数平さんはチビだったが、『おれには五尺の背丈がある』とあたるべからざるいきおいで、市長室では机の上に靴をはいたままの脚をどっかりのせてふんぞりかえっていた[8]。新しい知事が赴任してきても挨拶にいかず、用事ができると呼びつけた[8]」という
家族・親族
三浦家
- 妻・操(養父貞一長女[2])
- 長女・久(大分県人衛藤顕に嫁す[2])
- 三男・信夫[2]
- 四男・四郎[2]
脚注
参考文献
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