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上杉政憲
室町時代後期の武将。足利政知の家臣。治部少輔 ウィキペディアから
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上杉 政憲(うえすぎ まさのり)は、室町時代中期から後期の武将。堀越公方・足利政知の家臣。
生涯
上杉教朝の子として誕生。室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を受け、上杉氏通字の「憲」と合わせて政憲と名乗る。
父の教朝は義政の命により、渋川義鏡と共に関東執事に任じられて、堀越公方・足利政知の補佐にあたっていた[2]。
寛正2年(1461年)10月、堀越公方と扇谷上杉氏の対立の結果、教朝が自害するに至った[3]。教朝の死後、政憲が新たな関東執事として、京都から派遣された[4][5][注 2]。
さらに、寛正3年(1462年)3月に扇谷上杉持朝が離反し、古河公方・足利成氏に服属したとの雑説が出るようになった[3]。堀越公方と扇谷上杉氏の一連の対立は、渋川義鏡が深く関わった結果であったとみられる[7]。事態の解決のため、寛正3年頃に渋川義鏡が幕府によって失脚させられた[8][6]。堀越公方が扇谷上杉氏のこれまでの分国や所領を容認する姿勢を見せたことで、同年11月9日に政憲は義政からそのことを賞されている[4]。
寛正6年(1465年)6月、政憲は相模国に出陣し、山内上杉氏や扇谷上杉氏らと共に武蔵国五十子陣で成氏方と戦った[9]。だが、翌年に山内上杉氏の当主・上杉房顕が急死したため、撤退した。
文明8年(1476年)2月、駿河国守護・今川義忠が戦死すると、義忠の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と一族の小鹿範満との間で後継者を巡る内紛が起こる[10]。範満は扇谷上杉氏の縁者であったため[注 1]、6月に扇谷上杉定正は家宰の太田道灌に兵300を率いさせて駿府に送り、家督争いに干渉させた[10]。このとき、政憲も政知の命により、兵300を率いて駿府に入った[10]。政憲は狐ヶ崎に、太田道灌は八幡山にそれぞれ陣を構えた[10]。
ここで、龍王丸の叔父・伊勢盛時(北条早雲)が龍王丸派と小鹿範満派の間を周旋した結果、9月に内紛はおさまり、政憲と道灌は兵を引いた[10][注 3]。
その後、上杉氏と古河公方の間で和解の機運が盛り上がると、政憲はこれを受けて、政知に戦闘継続の困難を唱えて和議の受け入れを迫り、幕府との取りまとめの交渉にもあたった[注 4]。だが、都鄙和睦によって、堀越公方の支配権は伊豆一国に限定されることになり、政知は政憲を深く恨んだ[14][15][16]。
長享元年(1487年)頃、政知が長男の茶々丸を廃嫡し、三男の潤童子を後継にした[17][18]。その際、政憲は政知に対し、茶々丸の廃嫡を諌めたものの聞き入れられず、自害に至ったとされる[18][注 5]。なお、政憲が自害した正確な年月日は不明であるが、経緯からみて、文明18年(1486年)7月に太田道灌が主君の上杉定正によって殺害され、長享元年11月に小鹿範満が伊勢盛時によって滅ぼされた時期と相前後することから、何らかの関連性も考えられるといわれている[18]。
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脚注
参考文献
関連項目
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