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中原知親
平安時代後期の貴族・学者 ウィキペディアから
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中原 知親(なかはら の ともちか)は、平安時代後期の貴族・学者。
略歴
鳥羽院政中期の久安2年(1146年)文章生から右少史に任官し[3]、翌久安3年(1147年)左少史・右大史を経て、同年12月に従五位下に叙爵[4]。のち、仁平2年(1152年)右兵衛少尉、保元2年(1157年)左衛門少尉と武官を歴任した[5][6]。学者として名高く、多くの者が師事したという[1]。また、文筆の能力を買われて摂家の文殿にも仕えた[7]。
後年伊豆国に下向しており、伊勢外宮領だった蒲屋御厨(現静岡県下田市・南伊豆町)に住んで目代を務めていたが、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に遭遇する。頼朝は伊豆国衙目代で知親の親戚だった山木兼隆を討ったが、まもなく蒲屋御厨での民衆への非行を頼朝より咎められ、以仁王の宣旨を盾に知親は同地奉行の権限を停止させられた。これが頼朝政権における最初の土地に関する下知だった[7][8][9]。寿永2年(1183年)源義仲によって院近臣40余名が解官させられたが[10]、その中に左衛門尉だった知親も含まれている[11]。
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人物・逸話
人より顔が長かったため「面長進士」とあだ名されたという。また、藤原忠通に仕えていたころの話として、ある外出時に輿の屋根が低かったため烏帽子を外していたところ、道中で忠通の行列と遭遇したため輿を下りて道を空けたが、烏帽子を外していることを忘れたまま往来の場で平伏したため[注 2]、忠通の随身たちに大笑いされたという(『十訓抄』)[1][7][注 1]。
官歴
- 久安2年以前:正六位上。文章生[3]
- 久安2年1月23日(1146年3月7日):右少史[3]
- 久安3年1月28日(1147年3月1日):左少史[4]
- 久安3年4月1日(1147年5月2日):右大史[4]
- 久安3年12月21日(1148年1月14日):従五位下(皇太后宮天養2年御給)[4]
- 仁平2年1月28日(1152年3月6日):右兵衛少尉[5]
- 保元2年10月27日(1157年11月30日):左衛門少尉[6]
- 長寛2年7月1日(1164年7月21日):見文殿衆[13]
- 治承4年8月19日(1180年9月10日):見伊豆国目代[13]
- 寿永2年11月28日(1184年1月12日):解左衛門尉[11]
脚注
参考文献
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