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寿永
日本の元号 ウィキペディアから
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源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる[1]。また、平家方では都落ちした後も次の元暦の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。
改元
出典
「詩経」「周頌・載見」の「率見昭考、以考以享、以介眉寿。永言保之、思皇多祐。(率いて昭考に見え、以って考し以って享し、以って眉寿を介する。永く言(ここ)にこれを保ち、思(ここ)に皇いに多祜あらん。)」より。
「率いられて霊験昭かな周廟に参拝し、頭を下げて供物を奉げ、以って長寿を願うとともに、永く周の封建制が保持されて幸い多かれと祈る」という意味である。
寿永期におきた出来事
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
関連項目
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