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中壢区
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中壢区(ちゅうれき-く)は、台湾桃園市第二の区で市南部に位置する工業都市。

概要
1970年代の台湾民主化運動の過程で起きた中壢事件の舞台となった都市である。
地理
行政区画
歴史
中壢は古くは未開拓の荒野が広がる土地であり、青山番と称され、タイヤル族および少数のケタガラン族、平埔族が居住していた。後に大陸より渡海した移入者により中壢の平坦な台地が開墾され、これにより元来居住していたタイヤル族は南部の内陸山岳部へと移住を余儀なくされ、平埔族は次第に漢化され、漢人移民と共に協力して開墾に従事していた。
移民は福建、広東出身者が最も多く、康熙末年の陳増耀、雍正年間の客家人である黄風、饒平人の呉雨吉、頼永馨等の名が知られている。乾隆年間になると客家人移民の入植はさらに活発になり、鎮平人の黄梅生兄弟、鄭建儀兄弟、永定人の胡凱清および恵来人の傅仙桂等が挙げられる。1765年頃には福建漳州から郭樽が入植し最大規模の開発を行っている。郭樽は当初大園に入植し、その後族人を率いて南崁、桃園地方へと南下、原住民を駆逐すると同時に交通を整備し、今日の中壢発展の礎を築いた。これらの開拓民は一帯の村落を澗仔壢庄と称した。村内に老街渓、新街渓が流れ谷を形成していたことから「壢」と称されるようになった。後に当時台湾北部であった竹塹(現在の新竹市)と淡水(元来は新荘を指し、後に台北を意味した)の中間に位置したため、「中」字を採用し中壢と称されるようになった。
日本による統治が開始されると中壢は台北県の管轄となり、中壢弁務署が設置され、1909年に桃園庁と改められた。戦後は中壢鎮とされたが、1967年2月27日に県轄市への昇格が省府委員会第914次会議で通過し、同年7月1日より市制が施行され、中壢市となった。2014年12月25日、市轄区へ昇格し、中壢区となり今日に至っている。
政治
行政
区長
- 歴代首長
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対外関係
姉妹都市・提携都市
国外
教育
大学
高級中学
- 国立中央大学附属中壢高級中学
- 桃園市立内壢高級中学
- 私立啓英高級中学
高級職校
- 桃園市立中壢高級商業職業学校
- 桃園市立中壢高級家商職業学校
国民中学
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国民小学
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軍事学校
- 陸軍専科学校
宗教学校
- 聖徳基督学院
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交通
捷運(建設中)
- 桃園機場捷運
観光

観光スポット
関連項目
外部リンク
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