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中川久遠
日本の江戸時代中期の武士 ウィキペディアから
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中川 久遠(なかがわ ひさとお)は、江戸時代中期の豊後国岡藩主家の人物。8代藩主中川久貞の嫡子であった中川久徳の子。1783年に廃嫡された父に代わって祖父の継嗣(嫡孫承祖)となるが、まもなく没した。
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略歴
安永3年(1774年)1月11日、岡藩嫡子中川久徳(8代藩主中川久貞の次男)の子として江戸に誕生[2]。母は側室福原氏[2]。なお、幕府には明和6年(1769年)の生まれとして届け出がなされている[3](官年)。
久貞は久徳と不和となり、天明3年(1783年)に久貞は久徳を廃嫡した。ただしこのことは家老たちの中に反発を招き、混乱が生じる。天明4年(1784年)2月29日、嫡子(嫡孫承祖)とする願い出が承認される[4][4]。同年11月15日、実名として久遠が選定される[5](同時に弟の香橘の実名は久持と定められた)。天明5年(1785年)3月には眼病を理由として将軍家への御目見の延期を申し出ている[3]。
天明6年(1786年)10月20日死去[2]。公式には18歳とされていたが、実際には13歳であった[2]。代わって、弟の香橘(久持)が嫡孫となるが[2]、この年9月8日には将軍徳川家治の死去が公表されており、忌中のために嫡孫の届け出は遅れることになった。
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脚注
参考文献
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