トップQs
タイムライン
チャット
視点

二十八部衆

千手観音の眷属 ウィキペディアから

二十八部衆
Remove ads

二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)は、千手観音眷属。 東西南北と上下に各四部、北東・東南・北西・西南に各一部ずつが配されており、合計で二十八部衆となる。

Thumb
千手観音を守る二十八部衆の一尊・乾闥婆(三十三間堂)
Thumb
千手観音二十八部衆図
細見美術館蔵、鎌倉時代

典拠

典拠となる経典は『千手観音造次第法儀軌』(善無畏637年-735年訳)であるが、よく読んでみると一部に二つ三つの名前が入っていたり(下記の名称を見て解る通り複数の仏尊を纏めて一つの尊格として扱っている)、第二十一番目には「二十八部大仙衆」があったりと、経典の作者がかなりいい加減に「二十八部」を作り上げていたことがわかる(その二十八部大仙衆を一尊で代表しているのが下記の婆藪仙である)。

この経典は弘法大師によって日本に持ち込まれて普及した。しかし中国など日本以外の地域ではほとんど広まらなかった。

『儀軌』は、『千手陀羅尼経』(伽梵達磨、650年-655年ごろ訳)の偈文に連ねられている一切善神と一部の誤字を除いて一致するために、これをもとのサンスクリットをあまり理解しないまま写したものだと考えられている。しかし当の『陀羅尼経』にはどこにも「一切善神」が二十八部であるとは書かれていない。

このことを指摘し、おおよそ正確に本来のサンスクリットと対照して四十九部に修正したのが日本の僧侶定深による『千手経二十八部衆釈』(1108年ごろ)であるが、それ以外はほとんど省みられなかった[1]

二十八部に纏められたのは、『千手陀羅尼経』にある前述の二十八部大仙衆や、『金光明経』や『孔雀経』に説かれる二十八部鬼神大将や二十八部薬叉大将の影響であり、二十八という数字が重視されたのは二十八宿に由来すると考えられる[2]

Remove ads

名称

上述の通り『儀軌』には約50部[注 1]もの尊名が書かれているが、その中から独自に28尊を選び出し再構成したものが以下の三十三間堂の二十八部衆である[3][注 2]。また、何尊か重複しているがこれは他の経典でも見られることであり、韻律を整えるために字数を揃えるためか、または、複数の異なる資料を参照したためだと考えられる[4]

  1. 那羅延堅固(ならえんけんご)
  2. 難陀龍王(なんだりゅうおう)
  3. 摩睺羅(まごら)
  4. 緊那羅(きんなら)
  5. 迦楼羅(かるら)
  6. 乾闥婆(けんだつば)
  7. 毘舎闍(びしゃじゃ)
  8. 散支大将(さんしたいしょう)
  9. 満善車鉢(まんぜんしゃはつ)[注 3]
  10. 摩尼跋陀羅(まにばだら)
  11. 毘沙門天(びしゃもんてん)
  12. 提頭頼吒王(だいずらたおう)
  13. 婆藪仙(ばすせん)
  14. 大弁功徳天(だいべんくどくてん)[7]
  15. 帝釈天王(たいしゃくてんおう)
  16. 大梵天王(だいぼんてんおう)[注 4]
  17. 毘楼勒叉(びるろくしゃ)
  18. 毘楼博叉(びるばくしゃ)
  19. 薩遮摩和羅(さしゃまわら)[注 5]
  20. 五部浄居(ごぶじょうご)
  21. 金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)[注 6]
  22. 神母女(じんもにょ)
  23. 金毘羅(こんぴら)[注 7]
  24. 畢婆伽羅(ひばから)
  25. 阿修羅(あしゅら)
  26. 伊鉢羅(いはつら)[注 8]
  27. 娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)
  28. 密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)

三十三間堂に祀られているのは以上に風神雷神(下記の水火雷電神に由来する[17])を加えたものだが、この他にも『千手経二十八部衆釈』には二十八部衆の構成員として烏蒭灑摩明王[注 9]君荼利明王、鴦俱尸[注 10]、八部力士[注 11]、賞迦羅[注 12]摩醯首羅、迦毘羅[注 13]婆馺婆楼那[注 14]真陀羅鳩蘭単吒[注 15]、半祇羅[注 16]、応徳[注 17]毘多[注 18]、薩和羅[注 19]炎摩羅、娑怛那[注 20]満賢薬叉跋難陀、水火雷電神、鳩槃荼王が挙げられている[28]

Remove ads

主な二十八部衆像安置寺院一覧

二十八部衆像ではなく三十三応現身像である可能性がある像

博物館所蔵

日本以外の二十八部衆像

脚注

参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads