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二川玉篠
江戸時代末期の書家で歌人、画家。 ウィキペディアから
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二川 玉篠(ふたがわ ぎょくじょう、1805年(文化2年[1])- 1865年5月22日(慶応元年4月28日)[2])は、幕末の女流書家で歌人、画家。本名は二川瀧子[1]。
来歴
父は福岡藩士の料理人であり、書家でもある二川相近[3]。10歳年上で異母姉の鶴子は歌人、異母兄の簱雄は1797年(寛政9年)に幼くして亡くなった[1]。義兄方作は父の門下にあった書家で、典医鶴原家から姉が40歳のころに養嗣に迎えた[1]。幸之進[4]と名付けた息子があった[5]。
人物
記憶力に優れた姉の鶴子はもっぱら家内で父の助手を務め、瀧子は家にこもる父[6]と社会を結ぶ役割を果たしたと伝わる[1]。
筑前五女・筑前三閨秀

二川玉篠は貝原東軒、野村望東尼、高場乱、亀井少琹らとともに「筑前五女」と称されることがある[7]。また、亀井小栞、原采蘋とあわせて「筑前三閨秀」とよばれる[8]。
作品
福岡市博物館には玉篠の作品が伝わる。いずれも父相近が賛を寄せ、30歳以前の作品とされる[9]。
- 「雪梅図[9]」- 紙本墨画、掛幅、95.2×30.0 cm [4]。
- 「梅図」- 紙本墨画、掛幅、114.8×28.0 cm[4]。
- 「雪梅図」- 紙本墨画、掛幅、94.0×30.5 cm[4]。
- 「竹図」- 紙本墨画、メクリ、27.5×18.6 cm[4]。
- 「菊図[9]」- 紙本墨画、掛幅、66.8×39.0 cm[4]
雪梅図について、パトリシア・フィスターは以下のように評した。
縦横に交差する梅の枝を爆発するような勢いで描いたこの絵は、抽象画に近い(後略)—『近世の女性画家たち—美術とジェンダー—』 [10]
フィスターは、一方で書の修行の影響を受け、力強い筆の運びが印象的であると続け、他方で、この奔放さは絵の技法の指導を正式に受けていない玉篠の、性格や自由な家庭環境に由来するとしている[10]。庄野は父が開明派であった影響を指摘した[5]。
展覧会
- 2022年(平成4年)4月7日 – 同6月28日 「江戸後期筑前閨秀展 —亀井少栞、二川玉篠 —」
- 財団法人 亀陽文庫能古博物館(主催)。福岡市、福岡市教育委具会(共催)、福岡県、福岡県教育委員会、西日本新聞社、NHK福岡放送局、テレビ西日本(後援)[11]
脚注
参考文献
関連資料
外部リンク
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