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二条河原の落書
建武の新政当時の世相を風刺した七五調の文書 ウィキペディアから
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二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、建武の中興で官僚として活躍した人物(太田時連?)が記録した『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の中興当時の混沌とした世相を風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。建武政権への批判を中心に、連歌・田楽・茶寄合・禅宗・律宗なども含め、当時生まれつつあった混沌とした風習・文化を風刺したものである。建武元年(1334年)8月成立(建武2年成立を主張する研究者もいる)。
概要
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されてから2年後の、建武元年(1334年)8月(建武2年(1335年)8月説も存在、後述)に、建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられたとされる落書(政治や社会などを批判した文)で、写本として現代にも伝わる。
作者は不詳、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童であるとも言われているが、中国の『書経』・『説苑』由来と見られる文言や今様の尽くし歌風の七五調の要素を持つ一種の詩をかたどった文書であり、漢詩や和歌に精通している人物が書いたことは間違いないと思われる。また、後嵯峨院が、治天の君の時代であった正元2年(1260年)に院の御所近くに掲げられた『正元二年院落書』を意識したとする見方もある。
本文
「 |
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 |
」 |
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成立年代
「二条河原の落書」の成立時期について、原書の『建武記』には「去年八月」とあるだけで、具体的な年は示されていない[1]。『建武記』書写の過程で付けられたと思われる古注は、「元年歟」(「建武元年(1334年)だろうか?」)としている[1]。古くから用いられてきた伝統的な史料(『大日本史料』6編1冊(明治34年(1901年)など)は、古注の建武元年説を採用している[2]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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