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人見淇堂

江戸時代後期から明治時代にかけての幕臣、画家 ウィキペディアから

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人見 淇堂(ひとみ きどう、文化13年〈1816年[1]明治27年〈1894年3月17日)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての幕臣画家

来歴

大岡雲峰及び椿椿山の門人。また一時期、葛飾北斎の門下だったという。名は政義(まさよし)、通称は甚四郎。幕臣の人見甚四郎(先代)の息子。『文武高名録』によれば幼少より絵を好み、11歳で大岡雲峰に入門し絵を学んだが、のちに椿椿山の門に入る。文政12年(1829年)10月、父の家督を継ぎ小普請、翌年5月には書院番となる。以後、近習番や広敷用人などを歴任する。明治になってからは画業に専念し、浅草区森下町、後に青山南町に住んだ[2]。享年79。墓所は青山墓地[3]

作品

  • 椿山画譜』 ※明治13年(1880年)刊行。奥付に「編輯人 人見甚四郎 浅草区森下町六番地」とあり
  • 名家書画春秋帖』(『諸家書画帖』) 木版本 大英博物館所蔵 ※明治13 - 14年。柴田是真らと共画、淇堂は鳥の図を描く[4]
  • 「端午飾」 絹本着色 京都学・歴彩館所蔵

脚注

参考文献

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