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仁木義尹

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仁木 義尹(にき よしただ)は、南北朝時代武将

概要 凡例仁木義尹, 時代 ...

生涯

正平15年・延文5年(1360年)に仁木義長が政争に敗れて没落したあとも幕政に関与し、同年には、丹波丹後守護に補佐された[1]

正平16年・康安元年(1361年細川清氏楠木正義を中心とした南朝軍がに乱入し、足利義詮後光厳天皇を追い落とし京制圧を遂げた。義尹も将軍義詮と共に戦っているが、敗れている。丹波に撤退し、近江で軍勢を立て直し、義詮とともに南朝軍を破った[1][2]

正平17年・貞治1年(1362年)山陰地方を制圧した南朝軍山名時氏が伯耆で兵を挙げ、丹波に攻め寄せてきた。義尹はこれを迎撃し、時氏を破った[1]

正平23年・応安元年(1368年)、将軍義詮の死去により、南朝方は沸き立ち、摂津河内で楠木氏一党が、越後で新田義宗脇屋義治が、安芸で足利直冬が、伊勢で北畠教具が、蜂起した。伊予国でも蜂起した南朝方の河野通尭と戦う為、伊予に赴く。だが義尹は河野軍に敗れ、讃岐に撤退した後に、京へと戻った[1][2]

建徳1年・応安3年(1370年)室町幕府に引付衆に任ぜられた。その後管領細川氏と対立し、天授4年・永和4年(1378)に領国丹波を細川頼之に急襲され、行方がわからなくなった[1]

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出典

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