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井内石

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井内石
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井内石(いないいし)は宮城県石巻市の井内で産出される石材である。「稲井石」の表記や、産地の遠方で「仙台石」の呼称もある[2]。堅牢かつ、大型の石材として切り出される特徴があり、墓碑や記念碑といった石碑として、あるいは橋石や石垣といった土木建築用途に利用された。歴史的にも古く、石巻地方では中世の頃からこの石材が使われていたと見られている。近代以降に日本の広範囲で利用されるようになったと見られ、全国的な調査は不十分だが、東北地方関東地方北海道中部地方近畿地方、遠くは岡山県でも井内石を用いた製作物が確認されている[注釈 1][2][3]

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東京の浅草にある憲政碑。井内石によるもので、高さ636センチメートル、幅227センチメートル、厚さ42センチメートル、重量1万6875キログラム。なお、台座は茨城県の花崗岩である[1]

産地と特徴

井内石の産地である井内は、石巻市の中心市街地から東側、旧北上川と真野川の合流点付近、牧山の北側の山麓に当たる土地である[3]石巻線陸前稲井駅がある。歴史的には「井内」の地名が先にあり、1889年(明治22年)に8つの村が合併して「稲井村」が誕生した。稲井村は稲井町になった後、1967年(昭和42年)に石巻市に編入された[4]。井内の集落から南方向の石巻市街地東部にかけて、牧山の山麓周辺に石材店石切場が点在している[2][5]

井内石はこの地域にある三畳紀稲井層群の砂質粘板岩を切り出したものである[2]。石の色はまたは灰色で、風雨を受けても風化しにくく、薄板状に加工しても割れない堅牢さがある[2][3]。石碑には細かい碑文が刻まれるが、井内石による石碑はあまり風化せず、角の欠損も少ないため、石碑の文字が明瞭に残る。これは資料的見地からも貴重であり、井内石の優れている点である[2]。また、石碑用に大型の石材を切り出せ、平均で高さ2メートル超、大きいものでは5メートルから6メートルになる。一方で厚さは薄く、平均で15センチメートル程度である[2]。このような特徴から、井内石は板碑墓碑、記念碑などの石碑、あるいは敷石、石垣、土台石、橋石などの土木建築用途に利用されてきた[2][3][5]

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歴史

井内石は、石巻地域において鎌倉時代頃から利用されていたと見られている[2]。石巻市の多福院にある「吉野先帝菩提碑」は南北朝時代延元4年 (1339年)のものとされ、これは井内石を用いた石碑の古い例である[3]

江戸時代に井内の山は仙台藩直轄の管理地となり、公用あるいは許可を受けた者以外の採石は禁じられた。現在、宮城県仙台市青葉区の亀岡八幡宮には石の鳥居があるが、これは天和3年(1683年)に井内石を用いて建立された[6]。また、石巻市内の手水鉢調査によれば、市内にある手水鉢188基のうち133基が井内石によるものだった(平成5年度調査)。その中には江戸時代に製作されたものも含まれ、「井内石工新八」の名前が見られる。新八の名前はこの他に石碑や鳥居にも残ることから、名工だったのだろうと推測される[7]

明治時代初めころ、近代港湾建設を目指した野蒜築港事業においては野蒜港の突堤、北上運河東名運河石井閘門[8]の構築に井内石が用いられた。当時、井内石が数十艘の船によって運搬された。1894年(明治27年)になると井内石材合資会社が設立され、100名ほどの村落住民が採石や加工に従事した。井内石が日本の広域で使われるようになったのは、鉄道の普及以降とされる。当初の石材運搬手段は船か馬車によるものだったが、1939年(昭和14年)に石巻線が女川駅まで延伸すると、井内には陸前稲井駅が設置され、石材運搬の手間が改善された[2][3]

近年では、自然環境保護の関連から井内石の切り出しは小規模に行われ、また石碑としての利用は少なくなった。それに代わり、井内では中国産やインド産などの安価な外国産石材による製作が行われるようになっている[2][3][7]

東名運河は2011年(平成23年)の東日本大震災で被害を受けたが、井内石を用いて復旧された[9]

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脚注

参考文献

外部リンク

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