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伊吹知勢

日本の教員 ウィキペディアから

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伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年明治39年)10月2日 - 1983年昭和57年)4月11日[1])は、日本の英文学者お茶の水女子大学名誉教授。戦前に2つの日本の大学を卒業する。その後、渡米しカリフォルニア大学ロサンゼルス校英文科に学ぶ。帰国後、大学教授としてジェイン・オースティンヴァージニア・ウルフなどを研究・翻訳した[1]岡山県高梁市出身[2]

概要 いぶき ちせ 伊吹 知勢, 生誕 ...
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経歴

生い立ち

1906年(明治39年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の父・伊吹岩五郎、母・美志の四女として出生する[3]。親戚には、群馬大学医学部教授の伊吹令人がいる。1923年(大正12年)3月、16歳のとき、地元の岡山県立順正高等女学校(現:岡山県立高梁高等学校家政科)を卒業する[3]

その後、私立東京女子大学へ進学し、1927年(昭和2年)地元の高梁基督教会にて洗礼を受ける。1928年(昭和3年)3月、21歳のときに、東京女子大学英語専攻部を卒業する[3]

女性教育者として

大学卒業後、直ぐに埼玉県にある本庄高等女学校で教諭見習いとなる。同年5月には、正式に教諭として採用される。この時代、女性教諭は非常に少なく貴重であった。同校で約10年勤務した後、1939年(昭和14年)4月、伊吹が32歳のとき、本庄高等女学校を休職する。同月に旧制東京文理科大学(現:筑波大学)英語学部英文学科へ入学し、1943年(昭和18年)9月、37歳で同大学を卒業する[3]

2度目の大学卒業後、同年、1943年10月、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)助教授となる。その後、東京女子高等師範学校教授として勤務し、1949年(昭和24年)3月31日、東京女子高等師範学校は、お茶の水大学付属東京女子高等師範学校となる。付属校教授として勤務しながら、お茶の水女子大学大学講師を兼任する。加えて、当時女性の留学は大変珍しかったが、アメリカ大学婦人協会の奨学資金による第1回の留学生として、アメリカ名門大学であるカリフォルニア大学ロサンゼルス校に1年間留学する[3]

帰国後、1952年(昭和27年)3月31日、お茶の水女子大学東京女子高等師範学校が廃止され、お茶の水女子大学附属高等学校となり、新制高校へ移行すると、伊吹は、お茶の水女子大学の所属となり、お茶の水女子大学文教育学部講師となる。1953年(昭和28年)5月、お茶の水女子大学文教育学部助教授となり、1963年(昭和38年)11月、57歳のときに、お茶の水女子大学文教育学部教授となった。そして、お茶の水女子大学大学院人文科学研究科の担当となり、1972年(昭和47年)3月、65歳でお茶の水女子大学を定年退職する[3]

その後、伊吹のこれまでの大学への貢献が認められ、お茶の水女子大学名誉教授となる。お茶の水女子大学を退官したが、翌年、1973年から1978年まで、十文字女子短期大学教授となっている[3]

1983年(昭和57年)4月11日、肺繊維症のため死去。享年76歳であった[4]

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略歴

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著書

  • 「オースティンとウルフ 伊吹知勢論文集」伊吹令人 1984.4 私家版
  • 編「マンスフィールド 20世紀英米文学案内2」研究社出版 1972

翻訳

  • 分別と多感 エリナとメアリアン」 オースティン、新月社 1948、新版1952
共に復刻版で、文泉堂出版「ジェイン・オースティン著作集1・2」に収録
グーテンベルク21(上・下、電子書籍)2013
  • 燈台へ」 ヴァージニア・ウルフ、みすず書房 1976、新装版1999
  • 「オースティン」シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー、英文学ハンドブック「作家と作品12」研究社出版 1956、新版1983 

出典

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