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上房郡
日本の岡山県(備中国)にあった郡 ウィキペディアから
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郡域
歴史
要約
視点
古来、吉備国・備中国の中心地として栄えた賀陽郡に属していた。後に北部を上方郡(じょうほう・じょうぼう)として分離した。
元は「上方」と書き「じょうほう」「じょうぼう」と読んでいたが、「上房」と表記もした。表記は統一されていなかったが郡区町村編制法施行時に「上房」と書き「じょうぼう」と読む様に定められた。郡名の由来は賀陽郡に対し(高梁川の)上流にあったためといわれている。郡衙の位置は不明。
戦国時代に郡内に備中松山城(松山城、高梁城)が築かれ、三村氏の居城となった。江戸時代には、同城を陣屋とする備中国で最も大きい藩である備中松山藩(松山藩・高梁藩)があった。
真庭市旧北房町地区や高梁市中井町地区(方谷駅付近)などは、元々は上房郡ではなく阿賀郡であった。明治33年(1900年)にこれらの地域を阿賀郡から上房郡へ割譲された。
近世以降の沿革
- 明治元年12月7日(1869年1月19日) - 松山藩が戊辰戦争後の処分により減封。貞村・室納村・上村が倉敷県の管轄となる。
- 明治2年11月2日(1869年12月4日) - 松山藩が改称して高梁藩となる。それにともない松山が高梁に、松山東村が高梁東村に、松山西村が高梁西村にそれぞれ改称。
- 明治3年(1870年) - この年までに一橋徳川家領が倉敷県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治5年6月5日(1872年7月10日) - 小田県の管轄となる。
- 明治7年(1874年)(1町29村)
- 上湯山村・下湯山村が合併して湯山村となる。
- 東吉川村・西吉川村が合併して吉川村となる。
- 南組・北組が合併して川面村となる。
- 明治8年(1875年)(1町22村)
- 明治9年(1876年)(1町17村)
- 舞地村・室納村が合併して納地村となる。
- 岩村(亀山藩領)・貞村が合併して稔村となる。
- 上津村・有納村が合併して有津井村となる。
- 長代村・垣村・川関村が合併して上有漢村となる。
- 明治11年(1878年)
町村制以降の沿革
- 明治22年(1889年)6月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。特記以外は現・高梁市。(1町10村)
- 明治33年(1900年)4月1日 - 郡制を施行。同日、阿賀郡中井村・呰部村・中津井村・水田村・上水田村が本郡の所属となる。(1町15村)
- 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和4年(1929年)
- 昭和28年(1953年)10月1日 - 中津井村・呰部町・上水田村・水田村が合併して北房町が発足。(2町10村)
- 昭和29年(1954年)5月1日 - 高梁町・津川村・川面村・巨瀬村が川上郡玉川村・宇治村・松原村・高倉村・落合村と合併して高梁市が発足し、郡より離脱。(1町7村)
- 昭和30年(1955年)2月1日(2町2村)
- 昭和31年(1956年)4月1日 - 有漢村・上有漢村が合併して有漢町が発足。(3町)
- 平成16年(2004年)10月1日(1町)
- 平成17年(2005年)3月31日 - 北房町が真庭郡勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村と合併して真庭市が発足。同日上房郡消滅。
変遷表
自治体の変遷
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行政
- 歴代郡長
脚注
参考文献
関連項目
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