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伊東延吉
日本の文部官僚 ウィキペディアから
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伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1日[1] – 1944年(昭和19年)2月7日[2])は、日本の文部官僚。
経歴
富山県出身。旧制第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学法律科在学中に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した[1]。内務省に入省。岩手県属[3]。同県警視、同県理事官を務めた[4]。その後文部省に転じ、事務官に任じられた。文部大臣秘書官、書記官、実業学務局工業及補習教育課長、大臣官房秘書課長、学生部長、思想局長を歴任[1][4]。1936年(昭和11年)から翌年にかけて同志社大学の教員人事に介入し、末川博や具島兼三郎、林信雄、田畑忍が同大の教壇を追われた[5]。1937年(昭和12年)文部次官に就任した。
退官後は国民精神文化研究所所長を務め、1943年(昭和18年)に教学錬成所に改組された後も引き続き所長を務めた。他に勤労者教育中央会理事長も務めた[4]。
家族
脚注
参考文献
関連文献
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