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伊豆原麻谷

文人画家 ウィキペディアから

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伊豆原 麻谷(いずはら まこく、安永7年5月5日1778年5月30日) - 万延元年6月6日1860年7月23日))は、江戸時代後期、三河国加茂郡莇生村(現在の愛知県みよし市)出身の文人画家。名は迂、字は大迂・参賛、通称は橘造。麻谷は号。麻谷が晩年に使用した「原迂参瓚」印の「瓚」字は元王朝末期の画家・倪瓚の名にちなんだもので、別号の「雲林山人」も、倪瓚の号からとったものである[1]。中京の「歳寒三友」の一人とされ(略歴を参照)、江馬細香貫名海屋をはじめとする笑社の社友でもある[2]

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伊豆原麻谷「蓬莱宮闕図」

略歴

安永7年(1778年)5月5日、三河国加茂郡莇生村西山(現在の愛知県みよし市)の大工職・伊豆原喜六の三男として生まれる[3][4]

天明元年(1787年)、10歳のとき、名古屋禅寺町某寺へ入って徒弟となり、読経の合間に画を描くことを楽しみとしていた。麻谷を得度した師僧が、「わしよりも画が上手に描けたら、描くことを禁じない」と言って四君子を描いた。この和尚も画心のある人だったが、麻谷の描いた画はそれを上回るものであったという[5]。麻谷はその後も絵を描き続け、16歳になると還俗して京都へ上った。

寛政9年(1797年)、20歳のとき、長崎へ游学して方西園費晴湖に師事し、9年間におよぶ古画臨摸の末、清人直伝の画技を修得する[5]

文化4年(1807年)、30歳のときに京都へ戻り、中林竹洞山本梅逸と「歳寒三友」の契りを交わしたと伝えられる。俗説ではそのために麻谷が一時期「松谷」と号を改めたという[6]。しかしながら、麻谷の画は純然たる中国の古画にもとづく画法で描かれており、南宗画論にいう「気韻」を重んじて「形似」を重んじない画風であったので、竹洞や梅逸のようにもて囃されることもなかった[7]。しかしながら、鉄翁祖門の門人・倉野煌園が輯録した『鉄翁禅師画談』に紹介されるように、少なくとも当時南宗画のメッカであった崎陽において、非常に評価された文人画家であったことを忘れてはならない[8]

文政3年(1820年)、43歳のときに京都を去って大阪に出て、その後は各地を放浪した後、文政10年(1827年)、50歳のときに名古屋に帰り、田部井竹香はこのときに「麻谷」へ復号したと述べている[7]

天保7年(1836年)、59歳のとき、京都東福寺にて浦上春琴山本梅逸とともに「通天橋図」を描いており、嘉永6年(1853年)の秋、再度「通天橋図」(文人画研究会蔵)を製作している[9]

弘化元年(1844年)、67歳のときに江戸の書肆雁金屋で目にした「蘭亭図模巻摺帖」が強く印象に残り、その後一年間のイメージトレーニングを経て、ついに「蘭亭図」を製作[10]。嘉永4年(1851年)、74歳のとき、長崎を訪れて「長崎真景図」(個人蔵)を画き、嘉永7年(1854年)、77歳のとき、莇生村へ戻る。

万延元年(1860年)6月6日、83歳にて没。現在の名古屋市中区にある正福寺に葬られた。その門人に牧野練石・林稼亭らがいる。

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代表作

脚註

参考文献

関連項目

外部リンク

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