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伊達行朝

日本の南北朝時代の武将 (1291-1348) ウィキペディアから

伊達行朝
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伊達 行朝/伊達 行宗(だて ゆきとも/だて ゆきむね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した[4]官位従四位下宮内大輔伊達氏7代当主。南朝側の武将として各地を転戦した。

概要 凡例伊達行朝/伊達行宗, 時代 ...

概要

元弘元年(1331年)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内への討伐軍に加わった[4][3]。『太平記』などには「伊達入道」と記されており[3]諸根樟一らはこれを行朝に比定している[2][5]

元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、同国の式評定衆の一人として奥羽行政の中枢に参画した。

建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏を追って西上した際には、奥羽諸将と共に従軍し、延元元年(1336年)に帰国した。この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、多賀国府が脅かされると、国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移った。

延元2年(1337年)には、惨敗に終わる北畠顕家の二回目の西上にも従った。顕家の死後は常陸国伊佐郡伊佐城に一族の中村経長中村城主)らと共に楯籠ったが、高師冬に攻められ行朝と経長は囲いを突破し自領へ降りた[6]

正平3年/貞和4年(1348年)5月9日、死去した[7]

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人物

和歌にも通じており、『風雅和歌集』などにも入集した。和歌集での掲載名は藤原朝村

系譜

  • 父:伊達基宗(?-1335)
  • 母:不詳
  • 正室:静照院 - 田村氏
  • 生母不明の子女
    • 男子:伊達行資 - 伊佐城
      • 孫:伊佐岡行員 - 伊佐岡氏祖

注:系譜には疑問点も多い。詳細は伊達宗遠を参照のこと。

脚注

関連作品

関連項目

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