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佐藤美子
日本の声楽家・オペラ歌手 ウィキペディアから
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佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。
生い立ち~留学
1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた [2][1]。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。
父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。1877年、元領事のレオン・デュリーが帰国に際し、槇村正直京都府知事にフランスへの公費留学生の派遣を進言し、同行する8名の学生の1人に選ばれた。他に稲畑勝太郎、横田万寿之助、近藤徳太郎、今西直次郎、中西米次郎、歌原十三郎、横田重一がおり、一行はリヨンに到着した。友太郎はリモージュの官立美術学校に入学し、陶器製法を職人のゴルスに学び、卒業試験で優等銀杯を授けられた。この間リモージュの画工アルフレッド・ラトーの次女ルイズと結婚した。ルイズを伴って帰国後の1887年、農商務省御用掛となり、浜岡光哲や稲畑と共に紀伊郡深草村福稲に京都陶器会社を起こし、フランス式の機械で洋式の食器などを製造したが、欧化主義の失敗により社運は振るわず解散した。同年には欧米の商業視察のため浜岡光哲、高木才蔵、高松長四郎、稲畑、近藤と共に外遊した。その後、専売局技師、税関鑑定官、鑑定課長、検査課長などを務めた[3]。
4歳の頃、父の横浜税関への転勤をきっかけに横浜に住む。1911年、横浜市老松小学校に入学したが「あいのこ」であることを理由にいじめられたことをきっかけに、1911年9月に横浜紅蘭女学校(現横浜雙葉学園)に転校する[4]。父は後に青島守備軍司令附を務めた。幼少期に父に連れられて横浜山手で初めて見たゲーテ座のオペラ『カルメン』を見たことをきっかけにオペラ歌手を目指す。
1923年、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科に入学し、1926年に卒業した[5]。ネトケ=レーヴェに師事[6]。1926年にNHK初のオペラ放送にメゾ・ソプラノ歌手として出演した[5]。田谷力三、松平里子、内田栄一らと「ヴォーカル・フォア」を結成した[5]。1929年ヴォーカル・フォアが『カルメン』全曲のコンサートを開き、以後「カルメンお美」と呼ばれるようになる[4]。
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帰国後の活動
1932年にフランスから帰国し、山田耕筰の『カルメン』に出演。1935年に洋画家佐藤敬と結婚し、横浜市鶴見に住んだ。戦中は横浜交響楽団を引率して音楽挺身隊に従事した。
1954年には、全国初の音楽堂建設の推進団体音楽懇話会の代表として関わり、神奈川県立音楽堂開館を実現する[7]。同館の開催する音楽教養講座の講師ともなった。1964年には、創作オペラ協会を設立する。また、1964年には横浜市教育委員に就任するなど音楽教育・音楽文化の振興に努めた。
晩年
1972年紫綬褒章、神奈川文化賞受賞[8]、1974年には横浜文化賞を受賞した[9]。
1978年勲四等宝冠章[8]。 1980年2月、中島敦『山月記』原作の創作オペラ『虎月伝』を上演した[8]。
『虎月伝』は同年10月に第8回ウインナ・ワールドオペラ賞特別賞、さらに12月には第4回音楽の友社賞とレミー・マタン賞も受賞した[4]。
1981年オペラ団体協議会会長に就任、オペラハウス建設に尽力した[1]。
出演作品
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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