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六連 (海防艦)
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六連(むつれ)は日本海軍の海防艦[2]。 普遍的には択捉型海防艦の5番艦とされている[3]。海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の9番艦[4]。艦名山口県にある六連島にちなむ。 大阪鉄工所桜島工場において建造され1943年(昭和18年)7月31日に竣工し、8月15日付で第二海上護衛隊に編入された[5]。船団護衛に従事中の同年9月2日、トラック泊地近海で米潜水艦スナッパーの雷撃により沈没[6][7]。太平洋戦争中、最初に沈没した海防艦。
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艦歴
マル急計画の海防艦甲、第310号艦型の5番艦、仮称艦名第314号艦として計画。1942年(昭和17年)7月25日、大阪鉄工所桜島工場[注 2]で起工。1943年(昭和18年)3月5日、六連と命名される[2]。占守型海防艦の9番艦に定められた[4]。本籍を呉鎮守府と仮定。4月10日進水。6月28日、艤装員事務所が日立造船桜島造船所内に設置され事務を開始[8]。7月31日、竣工[3]。艤装員事務所を撤去[9]。 本籍を呉鎮守府に[10][11]、役務を呉鎮守府警備海防艦に、それぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入される[11][12]。軍隊区分において呉海上防備部隊に配置[13]。 8月15日、海防艦対馬[注 3]と六連は呉防備戦隊(呉海上防備部隊)からのぞかれた[17]。 同日付で対馬は南西方面艦隊隷下の第一海上護衛隊に[14][18]、六連は第四艦隊隷下の第二海上護衛隊に編入された[19][注 4]。軍隊区分内南洋方面部隊護衛部隊に配置。
8月中旬、六連は給糧艦伊良湖の呉~横須賀回航を護衛するよう命じられた[21][22]。8月14日、呉を出発する[6]。16日、横須賀に到着した[6]。 21日、六連は3821甲船団(興津丸、山福丸)を護衛して横須賀発[23]。攻撃を受けることなく30日、トラック着[24]。
9月2日、六連と駆逐艦雷(第6駆逐隊)は4902船団(6隻)[注 5]を護衛してトラックを出発した[25]。同日午後、ルクティ島沖北緯8度40分 東経151度31分の地点でアメリカ潜水艦スナッパーと交戦する。13時56分、六連は距離2000mに潜望鏡を発見、艦首をむけて速力16ノットに増速した[26]。14時1分、艦首方向にスナッパーから発射された魚雷2本が迫り、六連は取舵で回避を試みた[26]。だが六連の右舷前甲板部と後部機械室に各1本命中し、艦首は切断、機械室は大火災となった[26]。14時13分、横転して沈没した[26]。沈没の際、後甲板の爆雷が爆発して多数の乗組員を巻き添えにする。雷に116名が救助されたが、46名が戦死した[26][注 6]。
11月1日、六連は占守型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。六連の艦名は海上自衛隊の掃海艇「むつれ」に引き継がれた。
なお、六連は日本海軍が太平洋戦争で喪失した最初の海防艦であり[注 7]、竣工日から沈没日までの日数(34日間)は、海防艦中2番目に短命だった[注 8]。
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艦長
- 艤装員長
- 海防艦長
- 富所幸太郎 中佐:1943年7月31日 - 1943年9月16日
脚注
参考文献
関連項目
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