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内田正容
下総小見川藩の第6代藩主 ウィキペディアから
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内田 正容(うちだ まさかた)は、江戸時代後期の大名である。下総小見川藩の第6代藩主を務め、小見川藩内田家の9代目当主にあたる。
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生涯
寛政12年8月13日(1800年10月1日)、大身旗本で留守居役を務めた石河貞通の三男として生まれた。貞通は備中岡田藩主・伊東長丘の五男である。
文化13年(1816年)に、第5代藩主・内田正肥が早世したため、その養子となり家督を継いだ。同年12月には叙任された。幕府の役職として、和田倉門番、馬場先門番、半蔵門番、竹橋門番、田安門番、日光祭祀奉行などを歴任している。
しかし、天保8年8月14日(1837年9月13日)、遊郭への出入りや屋敷に芸者を招くといった不行跡が理由で、幕府の命令により長男の正道に家督を強制的に譲らされ、隠居することとなった。この際、青山にあった江戸上屋敷も収公されている。
その後は、長男・正道(享年24)、次男・正徳(享年34)、三男・正縄(享年31)の3人の息子が相次いで早世するという不幸に見舞われた。明治3年1月27日(1870年2月27日)に死去。享年71であった。
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逸話・評価
大名でありながら刺青を施していたと言われている。この刺青も、遊郭への出入りや芸者を招いた行為と合わせて、隠居を命じられた「不行跡」の一因であったと伝えられている。
系譜
父母
正室、継室
子女
参考文献
- 内田氏(藤原氏南家・乙麿流)の系図 - ねっこのえくり
- 小見川藩とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
- 内田正道(うちだ まさみち)とは? 意味や使い方 - コトバンク
- 文化・文政年間の下総国 - 江戸の歴史散歩
- 志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅳ) - Blog鬼火~日々の迷走
- 千葉県(房総)の主要大名 - 浜松のジョアンの家です
- 内田家 - FC2
- 伊東氏(藤原氏南家・乙麿流)・長久流の系図 - ねっこのえくり
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