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冨田甚平
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冨田 甚平 (とみた じんぺい、1848年12月25日〈嘉永元年11月30日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、明治・大正期の近代的農業排水技術の完成者。〈実学の鬼〉といわれる[1]。
生涯
1848年12月25日(嘉永元年11月30日)に、肥後国細川藩の郷士地主である茂四郎とその妻、セイの長男として生まれた。同郡辺田村の筑紫宗甫に入門して漢学を修め、1875年(明治8年)ごろ、父の反対を押し切って地下水の排水法を研究した[1][2]。
1878年(明治11年)に劣等の湿田が多い同郡の農業改善のため、暗渠排水による乾田化の実験を行って冨田式暗渠排水法を考案。1884年(明治17年)に〈留井戸〉を発明した。郷里の菊池郡は肥後農業の先進地で、江戸時代から暗渠排水や肥後犂などの改良が進んでいた。そんな中、甚平は実地の観察と努力を重ねて湿田を改良する〈冨田式暗渠排水法〉を完成させた。地域の農事指導に努め、1890年(明治23年)から1913年(大正2年)まで鹿児島・山口・秋田県の技師などとして土地改良や農業教育を指導し、関係した暗渠排水は全国で1万町に及んだ[1][2]。
1923年(大正12年)、朝鮮の全羅南道にいた長男の干拓事業を援助したが、晩年は木浦府に移住し、1927年(昭和2年)に没した[1]。
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関連作品
テレビドラマ
脚注
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