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凞子内親王
鎌倉時代中期の皇族。母は丹波局(後宮、石、右衛門督局)。伊勢斎宮。准三宮 ウィキペディアから
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凞子内親王(ひろこないしんのう、元久2年(1205年) - 薨年不詳)は、鎌倉時代中期の皇族。後鳥羽天皇皇女、母は丹波局。順徳天皇朝の伊勢斎宮。深草斎宮、また大谷斎宮と号した。
経歴
建保3年(1215年)3月14日、順徳天皇即位に伴い11歳で斎宮卜定。同年9月21日、左近衛府へ初斎院入り。同4年(1216年)9月20日、野宮に入る。同5年(1217年)9月14日、伊勢へ群行。同6年(1218年)2月14日、准三后。承久3年(1221年)4月20日、順徳天皇譲位により17歳で退下、同年8月21日帰京。寛喜2年(1230年)1月28日、26歳で出家。
斎宮退下の後の消息は『明月記』にしばしば登場し、藤原定家や神祇伯家と親しい関係にあったことが知られるが、天福元年(1233年)、29歳の頃の記事が最後である。また、その翌年に誕生した義子内親王(仲恭天皇の遺児、後の和徳門院)を養育したとする話も伝えられている[1]が、その後の消息は不明。
脚注
参考文献
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