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函石浜遺物包含地
日本の遺跡 ウィキペディアから
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函石浜遺物包含地(はこいしはまいぶつほうがんち)、通称「函石浜遺跡」は、京都府京丹後市久美浜町湊宮の箱石海岸の砂丘上に広がる国の史跡[1]。 史跡名称は函石浜遺物包蔵地[2]、史跡指定地に建つ標柱には函石濱遺物包含地と記されている[3]。

縄文時代から室町時代にかけての長期にわたる各時代の遺物が出土した複雑な様相を呈する遺跡群で[4]、大小約5000の古墳や古代遺跡が埋没するとみられる[5]丹後地方の考古学研究の草分けとなった[6]。
歴史
要約
視点

函石浜遺跡の発掘調査は、2020年現在までほとんど行われていない。そのため、遺跡について判明していることは、採集された資料から推定されたことに限られる[3]。
概略
遺跡群は砂地の風成層に覆われているが、明治時代には砂が移動し遺跡包含層や生活面が地表に露出していた時期があり[2]、1887年(明治20年)より以前に稲葉家の稲葉宅蔵[注 1]によって発見され、稲葉と久美浜郵便局の局長であった織田幾二郎によって多くの遺物が採集された[3]。
採集された資料は縄文時代後期から室町時代にかけての各年代にわたり、区域ごとに差異のある遺物が出土したことから[7][2]、稲葉は遺物を採集した場所を、その出土した遺物の特色により、「鉄山」「貝塚」「石原」「人形ヶ岡」「骨山」「製造場」「白石」「新開場」「大窪」等と命名し、区分けした[7]。
稲葉は函石浜遺跡の発見を、1898年(明治31年)6月28日発行の『東京人類学会雑誌』第147号雑録において発表し、これにより遺跡は広く全国に知れることとなった[8][注 2]。遺物の年代が、割合としては弥生時代の遺物が多く見つかっていたことから、当初は弥生遺跡として名が通ったが、国の史跡指定の基幹となった1920年(大正9年)の梅原末治の報告書の時点で、石槍や玉、管玉の未完成品や瑪瑙の破片、鉄滓、中国の陶磁器や皇朝十二銭、中世墓など、多様な年代の考古資料の断片も出土していることが確認できる。年代の異なる石鏃、銅鏃、鉄鏃の形の類似性から、利器の発達過程の研究において注目された。
数多くの出土品のなかでも特筆すべきこととして、1903年(明治36年)に新の王莽による通貨「貸泉」2枚の発見が挙げられる[9]。「貨泉」は、21世紀には長崎県壱岐島原ノ辻遺跡などで弥生土器とともに出土した他例がしられ[4]、王莽の時代だけでなく中世にも使用されていたことが判明しているが、函石浜遺跡で出土した当時は流通期間の短い貴重な資料の出土例として函石浜遺跡の名を全国にとどろかせた[7]。この発見で、かつての中国大陸との交易や文化の影響を考えるうえで重要な遺跡と位置づけられたことにより、1921年(大正10年)3月3日に国の史跡に指定された[4][9]。
21世紀初頭において久美浜町内でほぼ直角に折れて南西の久美浜湾に注ぐ佐濃谷川が、かつては北流し日本海に直結しており、その時代の河口港が函石浜遺跡であったとみられる[2]。郷土史家の澤潔は、函石浜遺跡のはじまりは久美浜海人族の拠点として、朝鮮や北九州などとの対岸貿易において繁栄し、5世紀前後に天日槍集団がその後を継いで久美浜湾も含めた地域の拠点としたものだろうと推論している[10]。当地の地名「箱石(ハコイシ)」の語源は「佩石(ハクイシ)」に由来し、「そこを領有していた磯」を意味する古語であることから、縄文時代より人々が居住した海岸と解釈される[11]。
関係年表
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地理

函石浜遺物包含地の範囲
京丹後市久美浜町の海岸段丘に砂が堆積した古い砂丘の上に展開する[6]。 網野町との境である箱石集落の西に位置する[10]。 東西1キロメートル面積約25ヘクタールの広大な遺跡群で[9]、史跡指定地の縁辺部、砂丘全体からみると海岸側に、1926年(大正15年)6月に建立された「函石濱遺物包含地」の標柱が建てられている[2][3]。遺物包含地の範囲は資料により若干の差異があり、東西約800メートル、南北約500メートル、面積約44ヘクタールと記載されている場合もあれば[7]、東西800メートル、南北600メートル以上と記されている場合もある[4]。
21世紀初頭の函石浜
21世紀初頭における当地の自然環境は、海浜沿いの作物を生育するには厳しい砂丘の状態であるため海浜自然植生が見られ、その内陸にクロマツやハイネズの自然植生と、さらに内陸に人工的に防砂林として植林されたアカシアの林が展開している[9]。 クロマツの自然植生は「日本の白砂青松100選」に選出される景勝地の一部に含まれるが、箱石浜では松食い虫被害による松枯れが相次いでいることから、地元の久美浜町箱石区は2010年(平成18年)から日進製作所や京都府立久美浜高等学校、京都北都信用金庫らと協働組織をつくり、毎年クロマツの植栽を続けている[13]。 その植栽地は「函石浜遺物包含地」の標柱を取り囲むように、内陸に展開する。 これらの植林のため、地図上においては海岸部を除いて「砂礫地」の記号はなく、砂丘地の範囲を判断することはできない[2]。 史跡指定地の背後、植林によって固定された砂丘地の一部では、果樹や野菜などの砂丘農業が行われている[2][3]。
史跡指定地周辺の海岸は、鳥取県まで連なる約75キロメートルの地域が山陰海岸国定公園に指定されているが、函石浜遺跡周辺はそのなかでも群を抜いて自然植生が残る地帯と認識されている[3]。 1997年(平成5年)に行われた植物調査報告によれば、箱石海岸の波打ち際から10メートルの地点から砂丘最頂部までの70~115メートルにわたり希少な海浜植物の群落がみられる[3]。
20世紀以前の函石浜
函石浜遺跡一帯は、大正末期から昭和初期にかけて遺跡調査の道案内を頼まれた土地の者の覚え書きに拠れば、昼間でも案内人がいないと道に迷うような薄暗いクロマツの林のなかにあったという[14]。しかし、第二次世界大戦末期に松の樹脂を多量に採集したことにより樹勢が衰え、松食い虫の被害を受けて松林は全枯死した[14]。 終戦直後に米軍が撮影した写真では、海岸から佐濃谷川まで一帯が砂浜となっていた[3]。
1954年(昭和29年)から1970年(昭和45年)頃までの間に防風林としてニセアカシヤの植林が進められ、1964年(昭和39年)の時点で史跡指定地の背後から佐濃谷川にかけては緑化しており、史跡指定地内にかけても植林が進みつつある様子が当時の空中写真から読み取ることができる[3]。 各年代の空中写真の分析により、前述の21世紀初頭の景観は、1976年(昭和51年)の時点でほぼできあがっていたものと考えられる[3]。
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出土品
縄文時代から室町時代にかけての各時代の多様な遺物が、区域ごとに出土している稀な遺跡とみられる。出土遺物の研究は、1901年(明治32年)4月20日発行の『東京人類学会雑誌』第157号で地質学者の佐藤伝蔵が薄片として顕微鏡観察した石鏃がサヌカイトであることを報告したのが端緒である[3]。その後、精密な図面を多く描き残した学者として定評ある大野延太郎(大野雲外)が遺跡の現地調査を行い、1909年(明治40年)と1912年(同43年)に同誌での報告を行った[3]。これらの先行研究をふまえて1918年(大正7年)度に現地調査が行われ、国史跡指定にいたる1920年(大正9年)刊行の梅原末治の報告書『京都府史蹟勝地調査会報告』第二冊が提出されている[3]。
- 貨幣
- 1903年(明治36年)に発見された新の王莽の「貨泉」2枚の発見により国史跡指定となった[9][7]。貨幣の出土例としては、この他に、神谷神社に保管される中国春秋時代の刀銭「明刀」も、函石浜遺跡から出土した物といわれている[7]。

- 土器・磁器
- 縄文式甕の破片
- 弥生土器 - 大陸渡来とみられる日本海系のもののほか、大和系のものがあり、瀬戸内との交流があったことが推定される[10]。
- 須恵器や土師器およびその欠片
- 青磁や染付磁器の破片
- 武具
- 石鏃・石剣
- 鉄鏃
- 銅鏃
- 装飾品・祭具・その他
脚注
参考文献
外部リンク
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