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初鹿野信昌

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将 (1544?-1624) ウィキペディアから

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初鹿野 信昌(はじかの のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将甲斐武田氏徳川氏の家臣。表が「香車」、裏が「成金」という陣羽織を羽織った(逸話は『関東古戦録』にも見られる)ことから「香車伝右衛門」と呼ばれた。

概要 凡例初鹿野信昌, 時代 ...
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略歴

加藤虎景の6男として誕生。永禄4年(1561年)に第四次川中島の戦い初鹿野忠次が戦死すると、初鹿野氏の名跡を継いだ。

武田信玄勝頼の2代に仕え、長篠の戦い以降は跡部勝資長坂光堅土屋昌恒等と共に勝頼の側近として活躍した。天正10年(1582年織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐の際は勝頼に合流しようとしたが、領民に妻子を人質に取られたため合流できなくなったという。武田家の滅亡後は徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い小田原征伐関ヶ原の戦い(徳川家康本陣、使番)、大坂の陣などに従軍した。

寛永元年(1624年)11月15日に死去した。享年は81(『甲斐国志』)、84(『寛政重修諸家譜』)など諸説ある。子の信吉が後を継ぎ、家系は徳川家旗本として存続した。知行地はさいたま市北区土呂町付近。土呂陣屋跡地に土呂の地蔵堂が現存。また慶長5年(1600年)に勧進した御嶽社(大宮区寿能町二丁目)が現存。墓所は御嶽社(大宮区寿能町二丁目)。

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逸話

逸話の一つとして、『関東古戦録』巻八の三増峠の戦い(1569年)の項には、香車の文字を書いた羽織を着ていたため、朋輩らに、「香車は二度と戻って来れないのに、なぜ帰陣した」といわれて、羽織の裏を返し、「時が経って、金に成り変わった」と答え、周囲を笑わせたと記述が残る。

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