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劉信 (羹頡侯)

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劉 信(りゅう しん、生没年不詳)は、前漢の初代皇帝である劉邦の兄の劉伯の長子。劉太公劉媼夫妻の孫で、劉喜・劉邦・劉交の甥にあたる。

経歴

劉邦が沛で亭長をしていた時期の或る日、劉邦が実家に友人を大勢連れて来たが、嫂(劉信の母)は、手に持っていた鍋の底をガリガリ(頡)と聞こえよがしに擦って、何も出さなかった。後で、劉邦がこの鍋の中を見るとが残っていたと言う。

劉邦が楚漢戦争項羽を破り皇帝となると、一族功臣に爵位や領地を与えたが劉伯の遺児である劉信だけには何の音沙汰も無かった。これを不憫に思った劉太公が劉邦に彼のことを口添えした。すると、劉邦は、「お父上に申されなくとも、私はそのくらいのことはわかっておりますよ。でも、あの子の母親(前述の嫂)は長者ではないので、爵位も領地も与えたい気持ちがしないのです」と、答えたと言う。この様な経緯で高祖劉邦に嫌われていた劉伯の遺児劉信は劉邦の軍に従軍し、韓王信との戦いの際には郎中将となり[1]、のちには劉太公の度重なる口添えが功を奏したか、紀元前200年に劉信にも爵位が与えられたが、その称号は羹頡侯(かんかつこう)。羹頡は、羹の入った鍋を擦るの意味であり、かつて劉伯の妻が劉邦に対してした行為を、露骨にあてこすっていた[2][3]

紀元前187年(高后呂雉元年)、劉信は罪を問われ関内侯に降格された[4][5][6]

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羹頡侯の諸説

解釈には議論があり、爵位の称号であるとする説との地名であるとする説がある。

  • 司馬貞は『史記索隠』において劉信の母が飯杓で釜を叩いた故事に由来する爵号であり、県邑の名称ではないとしている。
  • 張守節は『史記正義』において『括地志』を引用し、劉邦が嬀州懐戎県の東南十五里にある羹頡山という山の名前を取って劉信の爵号としたのであり、劉邦の恨みによるものだとしている。
  • 『史記箋証』が引用する王駿観の説では、「『史記』、『漢書』の表はいずれも羹頡が爵号であり、地名ではないとしている。よって『史記索隠』の説は信頼できる。『史記正義』は地誌の書に羹頡山があるのを見て、すぐにその地を引き合いに出してこれを実証しようとしたが、こじつけと言うほかない。漢王朝には山の名を侯の封号とした例はないのである」と断じている。また、同書で崔適は「羹頡山は羹頡侯という封号によって名付けられた」と論じている。

羹頡侯は列侯等級であり、漢初の功臣表に明確に記録されている列侯は全て実封であるため、劉信には食邑があったはずであるが、その戸数については史料に記載がない。漢初の列侯は封地名をもって称されるのが通例であったため、「羹頡」には対応する領地が存在したと考えるべきで、単なる名号や呼称ではなかったと考えられる。

代の学者・顧祖禹の著書『読史方輿紀要』には、「羹頡城は(舒城県の)県西北三十里にあった。伝えられるところでは、漢の高帝(劉邦)が兄の子である信を羹頡侯に封じ、舒に食邑を与えた際、この城は信によって築かれたものである」と記されている。つまり安徽省廬州舒城県の北東に羹頡城があり、それは劉信が築いたもので、その食邑は舒県にあったとされる。これは「羹頡」が実封であり、地理的な所在を持っていたことを証明するものである。

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参考文献

脚注

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