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劉官女子 (曼常在)

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劉官女子(りゅうかんじょし、? - 道光22年(1843年6月12日)は、道光帝の妃嬪。姓は劉氏内務府満洲正白旗の出身。二等侍衞官明の娘。東陵総管内務府大臣阿克当阿の孫娘。

生涯

入宮

道光11年(1831年)2月8日、前任二等侍衛官明の娘が「曼常在」に封じられる。 2月29日、家族が謝恩の奏折を提出。 清宮の記録『内務府敬事房』には「道光11年4月11日、曼常在へ刺繍入りの緑色の花卉補子一対が下賜された」とあり、入宮当初は一定の寵愛を受けていたことがうかがえる。

しかし同年12月3日、太医・郝進喜による診察の結果、内熱と冷えによる風疹や咳、高熱、悪寒の症状が見られ、体全体の痛みやかゆみを伴っていた。 道光13年(1833年)6月18日には、夏場の冷飲食による内臓の損傷と風寒による外感症状(暑病)を発症し、入宮後は健康状態が悪く、頻繁に病を患っていたことがわかる。

劉官女子への降格

道光13年(1833年)9月には、宮廷記録に「劉答応」の名が登場。 同年12月1日、『敬事房档』に「総管・王具賞が各宮主位の妃嬪へ銀両や小錁折片二個を下賜。しかし、皇帝の勅命により『劉答応には下賜しない。他の者は例に従って与える』」と記録されており、この頃にはすでに皇帝の寵愛を失っていたと推測される。

道光15年(1835年)2月14日、劉答応は「劉官女子」に降格。 同日夜、皇后鈕祜禄氏が劉官女子の降格を報告するのが遅れたため、道光帝から叱責を受けた。 翌日、総管郝進喜や王常清らにより、貴妃から常在までの各主位、および乾清宮・円明園・寿康宮の総管にこの件が伝達された。

劉官女子の待遇

劉官女子は宮女と同様の待遇となった。 毎年の支給品は以下の通り

しかし、主位としての一部待遇は維持され、専属の宮女1人を側に置くことのみが許可された。 また、彼女の住居の門には数人の宦官が配置され、日々の世話をしていた。

宦官高双禄と「本家で仕えていた王明」が交互に彼女の世話を担当し、夜間は更番で警護した。

ある宦官が「惠郡王の園邸での任務帰りに雪で靴が濡れ、劉官女子の屋内を歩いて床を濡らした」との記録がある。

宮中での事件

道光15年(1835年)3月、首領崔慶が鑾儀衛副首領陳百祥によって「劉官女子の実家から賄賂を受け取った」と密告される事件が発生。 これに対し、取り調べを受けた宦官は「2月14日(降格以降)、劉官女子の実家からの使者も連絡も一切なかった」と証言し、嫌疑は晴れた。

死去

道光22年(1842年)6月12日酉の刻(17~19時頃)に死去。 しかし、死後も清東陵(慕東陵)には葬られなかった。

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伝記資料

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