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加藤信清
1734-1810, 江戸時代中期~後期の絵師、幕臣 ウィキペディアから
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加藤 信清(かとう のぶきよ、享保19年(1734年)11月[1] - 文化7年9月19日(1810年10月17日[2]))、は日本の江戸時代後期に活動した絵師、幕臣。絵のモチーフを描くのに経文を用いた「文字絵」の絵師として知られる。
略伝
享保19年(1734年)に牛込門付近で生まれる。姓は藤原、諱は信清、小字は栄蔵(栄叟)、号は遠塵斎、別号に棲霞(栖霞亭)。絵は、狩野玉燕に学んだというが[3]、玉燕が亡くなった時清信は数え10歳であり、やや無理がある。画業は本業ではなく、幕府の役人だったという。ただし、どのような役職についていたかは不明で、初めて文字絵を書いたのは駿府で霊夢を見たのがきっかけだったという逸話から、駿府在番を勤めた書院番士かその同心・与力だったとも推測される[4]。
天明8年(1788年)正月、江戸小日向龍興寺(現在は中野区に移転)の陽国和尚の援助を受け五百羅漢図の制作開始し、これが信清の代表作となる。1幅に10人の羅漢を描いて計50幅とし、制作に専念するため妻子も遠ざけたという。寛政4年(1792年)11月に「釈迦文殊普賢菩薩像」を加えた51幅を完成させ、同寺に寄進した。これらは明治25年(1893年)に散逸したが、未だに龍興寺には信清作品が8点残っている。五百羅漢図制作中の寛政3年(1791年)江戸に来ていた大典顕常と出会い、「慈雲山龍興寺五百羅漢図記」を表している。これによると信清は絵を好んだが、他人と画技を競うのは仏を描き功徳とすることに及ばない。また、画で仏を描くより字で仏を描くほうが功徳が勝っている、と考え文字絵を始めたという。
文化7年(1810年)没、享年77歳。13回忌の文政6年(1813年)清信は父の友人だったという相学者・藤原相栄の撰文で「遠塵斎退筆塚」が芝伊皿子の大円寺に建てられ、同寺が杉並区に移転後も現存する。
現在確認されているのは、20点ほど。いずれも50代以降の晩年の作品で、その殆どが絵文字による道釈人物画である。文字絵の歴史は中国の唐末五代まで遡り、日本では平安時代末の中尊寺の国宝「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」が代表作で、室町時代には梵字を用いた良寅筆「梵字書文殊菩薩図」のような作品も現れた[5]。しかし、これらはあくまで輪郭線を文字で表すのに留まっているのに対し、信清は輪郭だけでなく面の部分も淡彩の文字で埋め尽くし、しかも絵画作品として破綻無くまとめており、高い完成度を誇る[6]。
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作品
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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