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加藤和幸
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加藤 和幸(かとう かずゆき、1954年[1] - )は、東京都出身[1]の元野球選手(投手)・監督。
来歴・人物
明治高校在学中から右腕投手として期待されたが、明大2年時に肩を壊して合宿所を退所し戸越銀座の自宅に戻る[2]。両親は仕事の関係で東京を離れていたため、近所の居酒屋で夕食をとることが多く、ある日、店の板前が、川崎球場でのナイター帰りに立ち寄った大洋の江藤慎一を紹介した[2]。
大学卒業後はスポーツ用品店に勤務し、親身になって野球用具を提供した岩倉高校が春の選抜で初出場初優勝を成し遂げるなど仕事にやり甲斐も感じていたが、野球の現場が恋しかった頃、江藤が日本で初めての野球の専門学校を静岡県田方郡天城湯ケ島町で立ち上げようとしているという情報を耳にし、加藤は勇をふるって江藤に連絡して「自分もぜひ、その野球学校で働かせてほしい」と頼み込む[2]。
江藤からは「来てもいいけど、うちは金なんか払えないぞ」[2]と返ってきたが、1984年5月31日にスポーツ店を辞めて天城湯ケ島に向かい、開校の準備期間から無給で江藤のスタッフとして仕えていった[3]。加藤は選手を受け入れる寮の事務室に布団を敷いて住まいとし、食事は観光協会の支援者の家で世話になった[3]。現金収入はその間、全く無かったが、献身的に没頭したのは、ひとえに江藤の日本初の野球学校にかける情熱に惹かれたからであった[3]。
1985年に開校した日本野球体育学校では15歳から23歳まで複雑な背景を持つ23名の生徒を一手に引き受ける寮監となり[3]、1986年から登録された同校のクラブチーム「天城ベースボールクラブ」ではコーチとして、練習で江藤の教えである「フライは両手で取るな、片手で取れ」「打撃はヘッドを走らせろ」を丁寧に論理立てて説明した[4]。
1992年にヤオハンと業務提携して「ヤオハンジャパン硬式野球部」となってからはコーチとして給料を受け取れるようになり、1994年には都市対抗初出場に導き、大西崇之を送り出した[5]。
1995年からは監督を務め、1997年には3年ぶり2度目の都市対抗出場に導いたが、1997年9月には親会社の倒産により活動を休止[6]。1998年からはアムウェイと業務提携した上でクラブチームとして再出発した「アムウェイ・レッドソックス」[6]でも引き続き監督を務め、全日本クラブ野球選手権大会優勝[7]に導く。同年限りで活動を終了したが、岡本真也を送り出した[7]。
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脚注
外部リンク
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