トップQs
タイムライン
チャット
視点
労働者自主管理
ウィキペディアから
Remove ads
労働者自主管理(ろうどうしゃじしゅかんり、英:Workers' self-management)とは、労働者が自己主導で業務プロセスを遂行する組織運営形態。労働者自主管理は社会主義の規定的特徴であり、民主社会主義者・リバタリアン社会主義者・市場社会主義者、さらにはアナキストや共産主義者によって、社会主義運動の歴史を通じ繰り返し提唱されてきた。[1]
概要
労働者自主管理には多くの形態があり、すべての労働者=組合員が総会を通じて直接企業を管理する形態や、選挙で選ばれた専門管理者を通じて間接的に管理機能を行使する形態、あるいは専門管理者を置かない自己主導型管理などがある。[2]自主管理の目的は、労働者に日々の業務でより大きな自律性を与えることで業績を高め、士気を向上させ、疎外を軽減し、従業員所有と組み合わさることで搾取を排除することにある。[3]
自主管理を行う企業は労働者管理企業と呼ばれる。自主管理は生産組織内部の統制権に関わる概念であり、所有権や、その組織がどのような経済体制下で動くかという問題とは区別される。[4]自主管理は、当該組織の従業員所有と一致する場合もあれば、公的所有下の組織でも存在し得る。また、共同決定や取締役会における労働者代表といった限定的な形でも存在し得る。
経済理論
自主管理企業から成る経済は、参加型経済、自主管理経済、協同経済などと呼ばれる。この経済モデルは、市場社会主義や分散型計画経済の一つであり、人々が自らの厚生に影響する意思決定に参加できるべきだという発想に由来する。20世紀の自主管理的市場社会主義の主要な提唱者には、ベンジャミン・N・ウォード、ヤロスラフ・ヴァネク(英語版)、ブランコ・ホルヴァト(英語版)らの経済学者がいる。[5]ホルヴァトは、参加は望ましいだけでなく、伝統的な階層的・権威主義的管理よりも経済的に実現的であると論じ、意思決定への参加の拡大が効率性の上昇と結びつくことを示す計量経済学的測定を提示した。1980年代初頭の社会主義ユーゴスラビアの視点から、ホルヴァトは世界全体も自主管理的な社会主義的組織形態へ向かいつつあると示唆した。[6]
労働者管理企業
要約
視点
労働者管理企業の理論は、自主管理的組織形態の行動・効率・性質を説明する。自主管理企業は従業員所有と一致し得るが、両者は別概念であり、一方が他方を必然的に意味するわけではない。
新古典派経済学
伝統的な新古典派理論によれば、競争的市場経済において、資本資産の所有を労働者が担うか否かは、企業パフォーマンスに有意な影響を与えないはずだとされる。[7]
新古典派の労働者管理企業研究の多くは、こうした企業の想定最大化対象(目的関数)、すなわち「労働者管理企業は何を最大化するのか(例:一人当たり所得か利益か)」とその含意をめぐって展開した。[8]この伝統における最初の労働者管理企業モデルは、1958年に米国の経済学者ベンジャミン・ウォードが提起したもので、彼はユーゴスラビア企業の分析に関心を持っていた。[9]ウォードによれば、労働者管理企業は株主の利益最大化を目的とする資本主義企業とは対照的に、労働者一人当たり所得の最大化を志向する。この仮定に基づき、彼は労働者管理企業の供給曲線は負の傾きを持つと論じた。すなわち、市場価格が上昇しても生産を拡大せず新規成員を雇わない。その帰結として、労働者管理企業から成る経済は労働の過少利用と高失業へ向かう傾向があるとされた。ウォードのモデルはエブセイ・ドーマーによって発展され、ヤロスラフ・ヴァネクによって一般化された。[10]
これら純理論的分析は、1971年にユーゴスラビアの経済学者ブランコ・ホルヴァトにより批判された。彼は、実在のユーゴスラビア労働者管理企業の実証分析の必要を唱え、具体的には労働者が年初に賃金を固定し、企業収益に応じて後で調整するという行動規則を指摘した。彼によれば、この規則を理論モデルに組み込むと、労働者管理企業の市場行動は、ウォードらの主張に反し、「伝統的な」利潤最大化企業の仮想的行動により近くなる。[11]
グレゴリー・ダウ(英語版)は、広範な実証研究に依拠しつつ、新古典派の観点から労働者管理企業が資本管理企業に比べて稀少である理由の理論的説明を展開している。[12]
古典派経済学
19世紀には、自主管理経済の思想がアナキストの哲学者・経済学者ピエール=ジョゼフ・プルードンによって初めて本格的に提示された。[13]この経済モデルは相互主義と呼ばれ、自由市場で活動する協同組合を中心に構想された。
ジョン・スチュアート・ミルは、競争的市場経済において、労働者によって運営・所有される協同組合が、伝統的な資本管理企業をやがて駆逐するだろうと信じた。彼は『経済学原理』で次のように述べる。
しかしながら、人類が改善を続けるなら、最終的に優勢になると期待される結合の形態は、資本家が長として存在し、経営に発言権のない労働者とのあいだに成り立つものではない。むしろ、労働者自身が対等の条件のもとに結合し、彼らが事業に用いる資本を共同で所有し、自らが選任し、解任し得る管理者の下で働くという形態である。[14][15]— ジョン・スチュアート・ミル、経済学原理 IV, Ch. 7
ミルもカール・マルクスも、長期的には民主的な労働者管理が階層的管理より効率的だと考えたが、マルクスは労働者管理企業が市場経済で資本主義企業を置き換える見込みについては悲観的だった。[16]その利点にもかかわらず、西側の市場経済において労働者管理企業は比較的稀である。[17]
マルクスは、生産者の自由連合を共産主義社会の特質として擁護し、自主管理過程が集中した国家に代わるものとなると主張した。この概念は、疎外の止揚というマルクス主義の考え方と関係する。[18]
ソ連型経済計画
旧ソ連・東欧で実践されたソ連型経済モデル(英語版)では、1980年代に国有企業に労働者自主管理が導入された[19]が、企業における労働者の広範な自主管理や経営参加が欠如していたとして、社会主義者から批判された。[20]
経営学
ダニエル・ピンクは著書『動機: 動機の驚くべき真実』で、自主管理・自己主導のプロセス、熟達、労働者の自律性、目的意識が、金銭的報酬よりはるかに効果的な動機づけだと、実証的証拠に基づいて主張する。ピンクによれば、21世紀の大半の仕事においては、自主管理と関連する内発的動機づけが決定的に重要であり、階層型マネジメントや金銭報酬への過度の依存といった時代遅れの考えは退けられるべきである。
より新しい研究は、インセンティブやボーナスがパフォーマンスと自律的動機づけに正の効果を持ち得ることを示唆する。[21]その鍵は、インセンティブやボーナスを、自律性・有能感・関係性を妨げるのではなく強化するように整合させることにある。
政治運動
要約
視点
ヨーロッパ
ギルド社会主義は、市民との暗黙の契約関係の下で、職能別ギルドを通じて労働者による産業統制を提唱する政治運動である。[22]英国に起源を持ち、20世紀第1四半期に最も影響力が大きかった。G・D・H・コール(英語版)と、ウィリアム・モリスの思想の影響が強い。労働者自主管理の重要な実験の一つは、スペイン革命期(1936-1939年)(英語版)に起こった。[23]ルドルフ・ロッカーは『アナルコ・サンディカリズム(1938)』で次のように述べた。
フランスでは、1968年5月ののち、ブザンソンの時計工場リップが1973年に経営側の清算決定を受けて自主管理に移行した。これは1968年以後のフランスを象徴する社会闘争であった。フランス民主労働総同盟(英語版)に属するシャルル・ピアジェがストライキを率い、労働者は生産手段の掌握を主張した。統一社会党(PSU)(旧急進党のピエール・マンデス=フランスを含む)は自主管理を支持した。[25]
スペイン・バスク地方のモンドラゴン協同組合企業は、世界で最も長期的かつ成功した労働者自主管理の例とされる。リチャード・D・ウルフ(英語版)らのマルクス経済学者や、クラウディア・サンチェス=バホとブルーノ・ロエランツによる『資本と負債の罠』は[26]、資本主義的生産様式(en:Capitalist mode of production (Marxist theory)英語版)に代わる経済の組織化例としてこれを称揚している。[27]
2008年の金融危機以降、ギリシャ[28]、フランス[29]、イタリア[30]、ドイツ[31]、トルコ[32]で、工場が占拠され自主管理となった。
ギリシャでは、公共サービスの民営化を含む緊縮政策の結果として地域の連帯活動が活発化した。この大衆政治運動は、非公式の連帯を協同組合へと変換して生活を保証するという構想を持っていた。 [33]労働者コレクティブ/協同組合、自助グループ、地域通貨・物々交換システム、フリーサイクル・ネットワークとタイムバンク、労働者占拠工場などが、非資本主義的社会実験・イノベーションとして行われた。[34]
ユーゴスラビア
冷戦期最盛のころ、ユーゴスラビアはチトー=スターリン決裂(英語版)の帰結として、東欧諸国の中央計画・中央管理とは一線を画し、社会主義的自主管理を追求・提唱した。これは、中央計画を基礎比率の計画にとどめ、資本主義的な生産・分配のデメリットも解消しつつ分権的な自主管理を目指したものである。[35]理論的にはチトーと、より直接にはエドヴァルト・カルデル(英語版)に基づき、経済学者ブランコ・ホルヴァトも労働者自主管理の理論に大きく寄与した。非同盟運動における中立と主導的役割ゆえ、ユーゴ企業は西側・東側双方の市場に輸出し、アフリカ・欧州・アジアで大型インフラ・工業プロジェクトを請け負った。[36][37]
1950年の自主管理法は労働者評議会(英語版)を導入し、「国家死滅」というマルクス主義の理念の前提の下で、『官僚制の終わりの始まり』が宣言され、スローガン「工場を労働者へ!」が掲げられた。ボリス・カンツライターによれば、労働者評議会の着想は、ユーゴスラビアのパルチザンとパリ・コミューンらが設けていた人民評議会に由来する。[38]1953年ユーゴスラビア憲法改正(英語版)は自主管理を憲法事項とし、国有財産を社会的財産に転換した。1963年ユーゴスラビア憲法(英語版)は、自主管理と社会的所有を最高価値と定め、ユーゴスラビアを「社会主義的自主管理民主共同体」と規定した。[39]
1976年の結合労働法はユーゴ自主管理の最終段階を画した。1974年憲法に基づき、労働者と市民の直接主権に立脚する完全に自律的な制度を創設。結合労働基本組織を各労働者が所属する基本経済単位として設け、生産過程における役割に応じて組成。結合労働基本組織は結合労働組織へと結合し、さらに他の結合労働組織とともに複合結合労働組織を形成し得た。
結合労働基本組織総会の全労働者は、拘束的委任を受けた代表を結合労働組織の労働者評議会に選出し、取締役選任から賃金・投資・結合・開発・具体的生産目標に至るすべてを決定した。もう一つの特徴は、自主管理協定と社会協約であり、これは古典的な契約に代わるものであった。[40]結合労働組織の目的は営利ではなく社会目的であり、教育・医療・雇用・住宅問題の解決を促進することだった。[41]
国際通貨基金と世界銀行によって課されたマクロ経済改革・構造調整プログラムにより、ユーゴの労働者自主管理は終焉した。[42][43]
エンプレサス・レクペラーダ運動
アルゼンチンのエンプレサス・レクペラーダ運動は、2001年の経済危機の前後の余波に応じて発生した。[44]エンプレサス・レクペラーダは「取り戻された・再建された・再生された企業・工場」を意味する。スペイン語の動詞レクペラーは「取り戻す」「取り返す」に加え、「元の良好な状態に戻す」の意もある。[45]
この運動は、2001〜2002年までに約200社のアルゼンチン企業が労働者により再生され、労働者協同組合へ移行する形で展開した。[44]著名な例はブルクマン工場、ホテル・バウエン、FaSinPatである。2020年時点では約1万6,000人の労働者が約400の再生工場を運営している。[45]
エンプレサス・レクペラーダの現象はアルゼンチンにとって新しいものではない。むしろ1970年代の「汚い戦争」のなかで一度消滅したものである。エクトル・カンポラ(英語版)政権の発足直後(1973年5〜7月)には、約600件の社会闘争・スト・工場占拠が起きていた。[46]
こうした広がりにより、社会主義者・ペロニスタ(英語版)・アナキスト・共産主義者など多様な政治ネットワークと結びつく再生工場運動が形成された。組織的には、左派の全国再生企業運動[47]と、右派の全国再生工場運動[48]という二大連合がある。[49]
この運動は2011年に、労働者による事業継承を容易にする破産法改正をもたらし[50]、2011年6月29日にクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領が署名して成立した。[51]
Remove ads
関連項目
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads