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北条久時

日本の鎌倉時代後期の武士 ウィキペディアから

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北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流北条義宗赤橋 久時(あかはし ひさとき)とも[1]

概要 凡例北条久時 / 赤橋久時, 時代 ...

生涯

弘安3年(1280年)、執権北条時宗の命を受けて河内信濃日向紀伊摂津の5カ国を兼ねる守護となった。

永仁元年(1293年)3月、六波羅探題北方に任じられる。

永仁5年(1297年)6月、探題職を辞して鎌倉に帰還し、翌年4月に評定衆の一人に列せられた。その後も引付頭寄合衆、官途奉行などに任じられて幕政の中枢に参与した。

徳治2年(1307年)3月、36歳で死去。

人物

経歴

※日付=旧暦

  • 1288年正安元)、従五位下に叙し、右馬助に任官。
  • 1289年(正安2)、刑部少輔に転任。
  • 1293年永仁元)、3月23日、六波羅探題北方に赴任。
  • 1295年(永仁3)、12月29日、従五位上に昇叙し、越後守に遷任。
  • 1297年(永仁5)、6月18日、六波羅探題退任。
  • 1298年(永仁6)、評定衆と就る。
  • 1301年正安3)、一番引付頭人を兼帯。
  • 1302年乾元元)、一番引付頭人から二番引付頭人に異動。
  • 1304年嘉元2)、寄合衆も兼帯。月日不詳、武蔵守に転任。
  • 1305年(嘉元3)、二番引付頭人から一番引付頭人に異動。
  • 1306年徳治元)、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
  • 1307年(徳治2)3月、出家。法号:因恵、因憲。11月28日、卒去。享年36

画像集

脚注

関連項目

外部リンク

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