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伊勢西条藩
日本の江戸時代中期に、伊勢国に所在した藩 ウィキペディアから
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伊勢西条藩(いせにしじょうはん[注釈 1] / いせさいじょうはん[注釈 2] [注釈 3])は、伊勢国河曲郡西条村(現在の三重県鈴鹿市西条付近[3])を居所とした藩[3]。徳川吉宗の側近である有馬氏倫が、1726年に加増を受け大名に取り立てられて成立した。歴代藩主は定府であり、領地は伊勢国・下野国・上総国に分散していた。伊勢領を管轄する陣屋はのちに同郡南林崎村(現在の鈴鹿市林崎・南林崎町付近)に置かれたため、南林崎藩(みなみはやさきはん[注釈 4])とも称される。1781年に上総領の五井に居所を移して以後は五井藩と呼ばれる。なお、南林崎村など伊勢国の領地の一部は廃藩置県まで有馬家(五井藩、のち下野吹上藩)領として存続する。
歴史
関連地図(三重県)[注釈 5]
前史
藩主有馬家(摂津有馬氏)は、筑後久留米藩主家の分家であり、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の三男・有馬頼次を祖とする。頼次は徳川忠長に仕えて1万石を得ていたが、忠長改易に伴って所領を失っている。頼次の継嗣有馬吉政(実父は建部光重・母は豊氏の姪)は徳川頼宣に仕え、子孫は紀州徳川家に代々仕えた。
初代・有馬氏倫
頼次から4代目の有馬氏倫は紀州時代より徳川吉宗に仕えた。享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任すると幕臣に転じて御側御用取次となり、伊勢国三重郡内に1,300石を与えられた[3]。享保2年(1717年)に下野国芳賀郡内で1,000石の加増を受けた後[3]、享保11年(1726年)に伊勢国多気郡・河曲郡・三重郡内、下野国河内郡内、上総国市原郡内において7,700石を加増されて[3]都合1万石となり、享保12年(1727年)閏1月28日に領知の御朱印状を賜った[3]。ここに有馬氏倫は大名となり、伊勢西条藩が立藩したとみなされる[3]。本家にあたる久留米藩が外様大名であるのに対し、大名取立ての経緯から伊勢西条藩は譜代大名である。
居所と定められた西条村は神戸城下町に近接している。西条村は神戸藩との相給であり、1000石あまりの村高の約半分が西条藩の領分であった[4]。
2代から5代
第2代藩主有馬氏久は大番頭を務めた。伊勢の領地を管理する陣屋は南林崎に置かれることになるが、南林崎陣屋の設置時期についてはさまざまな記述がある(後述)。藤野保は、南林崎陣屋への移転には元文2年(1737年)説と延享2年(1745年)説の両説がある(いずれも2代藩主・氏久の時代)とする[5]。
氏久の後は継嗣に恵まれず、幼少・短命の藩主が続いた。第3代藩主・氏恒、第5代藩主・氏恕は、縁戚(氏久正室の実家)である信濃飯田藩主・堀家からの末期養子で継承している。
天明元年(1781年)、有馬氏恕は居所を伊勢国内から上総国市原郡五井に移した[6][3][7](五井藩参照)。これとともに有馬家は定府を解かれ、半年ごとに参勤交代をするようになった[3][7]。
なお、『角川日本地名大辞典』では南林崎に陣屋が移ったのは、五井藩となった天明元年(1781年)としている[4][8]。『四日市市史』では、享和2年(1802年)に西条村が神戸藩領となったことから、このときに南林崎村に陣屋を移転したとする[9][注釈 6]。
後史
有馬家は上総国の領知を伊勢国・下野国に移され、藩庁を下野国吹上藩に移転して廃藩置県を迎える[3]。南林崎村など伊勢国内の領地の一部は有馬家の領地として残り、廃藩置県後に吹上県の管轄となった。
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歴代藩主
- 有馬家
1万石 譜代
政治
歴代藩主は定府であったため[3]、伊勢西条が「居所」と設定されているものの、実際に領地に赴くことはなかった。伊勢領7700石は[3]、宝暦3年(1753年)以来[4]南林崎村の[8]棚瀬氏が代官を世襲して管掌している[3][4][8][注釈 7]。
脚注
参考文献
関連項目
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