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台湾語歌謡曲
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台湾語歌謡曲は、台湾語により歌唱されるポピュラー音楽の総称。台湾では「台語流行音楽」と呼ばれる。古い歌謡曲や演歌から現在のロックやラップまで、多様な音楽のジャンルが含まれる。
歴史
要約
視点
日本総督府時代の台湾では、1931年に「烏貓行進曲」、1932年に「桃花泣血記」、1933年に 「望春風」、1934年に「雨夜花」、1937年に「心酸酸」などの台湾語歌謡が発表され、台湾全土を風靡した[1][2]。これは映画との関わりがあり、「桃花泣血記」と「望春風」は同名の映画の主題歌であった[3]。歌仔戯や芸旦出身者が歌手となり、歌仔戯式の地声による唱法が好まれた[4]。題材は当初の自由恋愛から、異性を待ちわびる女性の受身的な心情を歌うものに変化していった[3]。ヒットした一連の曲が描くのは思いを遂げられない台湾女性の感情であったが、その情景は閉塞感に満ちた当時の台湾社会全体の雰囲気であった[4] 。1936年からは検閲によるレコードの規制が始まり[5]、1937年の日中開戦後には文化も戦時体制に組み込まれ[6]、例えば「雨夜花」は歌詞が日本語に書き換えられて「誉れの軍夫」という曲になり、政府の宣伝に使われた[1]。1937年まで台湾語歌謡曲のレコードは売り上げ好調だったが、やがて原材料が不足し娯楽市場の景気は低迷、1940年以降は台湾でのレコード製作は事実上打ち切りとなった[7][8]。
戦後の中華民国では1949年から戒厳令が敷かれ、中国国民党の政策を反映した反共、愛国をテーマにする北京語歌謡曲(国語歌)が多く創作された[9]。蒋介石は礼記を拠り所に、音楽が人心や社会の調和をもたらすと期待していた[10]。一方、 台湾語は使用を制限され、発行を認められる創作曲が減ったため、代わりに日本語の歌詞を翻訳したカバー曲が作られるようになった。カバーされた楽曲は演歌が中心で、以後の台湾語の音楽に影響を与えた。曲数は1960年代にピークを迎え、総数は公式なものはないが500とも600とも言われる。そのメロディは悲哀や苦悶を移入でき、感性的に容認できる音楽の形態であった[11]。地声による歌仔戯式の唱法は徐々に減り、日本式のこぶし、ゆりの節回しに取って代わった。1970年代に入ると国語流行歌もこぶし、ゆりを取り入れて頻繁に演歌をカバーしたが、当時の音楽浄化運動の中で歌い方が日本的であると批判され、消えた[4]。台湾語歌謡曲は禁止歌制度による歌唱禁止[12]、歌手証の制度によるテレビやショーの出演規制、またテレビで放送できる台湾語の楽曲は1日2曲までと定められるなど抑圧を受けた[13]。
戒厳令が1987年に解除され、禁止歌の一部が解禁[1][14][15]された後、台湾語歌謡曲は、国語流行歌や校園民歌(キャンパス・フォークソング)[1][9]とはある程度の距離を保ちながら、台湾の歴史の道を歩んでいる[4]。1989年に黒名単工作室[16]が「抓狂歌」を発表、社会を風刺したアルバムは大ヒットした[17]。西洋音楽など様々な音楽スタイルと台湾語を結合させて新たな音楽を作り出そうとする新台湾語歌運動[18]に林強[19]らが続いた。曲には台湾の社会変動やそこにいる台湾住民の心情を表すものが多く含まれている[9]。その後、ロック、ブルース、ラップなどに多様化し、今日に至っている[4]。
1990年に始まった「金曲奨(ゴールデン・メロディ・アワード)[20]」には、主要な部門賞は音楽ジャンルではなく華語[21](中国語)、台湾語、客家語、先住民語の言語別に設けられており[22]、 2025年の第36回金曲奨では台湾語歌手シリ・リー(李竺芯)が年間アルバム賞に選ばれ、最多3部門を受賞した[23]。
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金曲奨受賞台湾語歌手・バンド[24]
歌手
バンド
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その他
台湾歌謡曲はT-POPと呼ばれることがある。また、T-POPとは、他にも、タイ王国のポップス歌謡と言う意味がある。
脚注
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