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吉田公均
日本の画家 ウィキペディアから
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吉田 公均(よしだ こうきん、1804年(文化元年) – 1876年(明治9年))は、江戸時代後期から明治時代初期にかけての四条派絵師。通称は平吉、嘉十郎。字は平吉もしくは君平。40歳代以前の号は広均で、別号に田均、栖霞、江上漁夫がある。
経歴
越中国新川郡江上村(現・富山県中新川郡上市町江上)に、代々地元の豪農だった父・真四郎の三男として生まれる。幼時より画を好み、紀広成(山脇東暉)に学ぶ。文政13年(1830年)27歳で『平安人物志』に掲載され、この頃には一人前の絵師として認められていた。広成没後は、貫名菘翁に文人画を学び、その後再び四条派の松村景文に師事する。1855年(安政2年)に京都御所が再建された際、学問所の杉戸に「春秋花車図」「松鷹図」を描いた[1]。明治維新後は、東京に移ったとも言われるが、京都に帰って亡くなったという。73歳で没、墓は郷里上市町の浄誓寺。子孫に『戦艦大和ノ最期』で知られる小説家・吉田満がいる[2]。
作品は総じて細やかな筆使いと華麗な色彩を特色とし、花鳥山水画を得意とした。理由は不明だが大聖寺を度々訪れていたらしく、作品が複数残っている。
作品
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出典
参考文献
関連項目
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