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向瑞琨
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向 瑞琨(こう ずいこん)は清末民初の政治家・実業家・ジャーナリスト。北京政府の要人。字は淑予[2]。旧名は瑞琦[1]。
事績
湖南時務学堂を卒業後、日本に留学し、明治大学商工科で学ぶ[3]。帰国後は、両江総督端方の下で商務文案に任命された。1910年(宣統2年)、南洋勧業博覧会幇弁をつとめる。翌年に工商科挙人として農商部に赴任した。さらに漢口へ移り、新聞『復報』を編集した[2]。
中華民国成立後は北京に移り、『亜東新報』、『東大陸報』の両紙で主筆をつとめる。さらに、湯化竜らと民主党を結成した。1912年(民国元年)8月、北京政府の工商部次長に就任する。翌年7月には、段祺瑞臨時内閣で一時的に工商総長を代理した[2]。
その後、向瑞琨は全国商会連合会の創設に携わり、副会長に任じられる。まもなく会長に昇格した。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を画策すると、向瑞琨は帰郷する。以後、故郷において商工業の振興に取り組み、瑞興玻璃工廠の総理などを務めた[2]。1929年(民国18年)、死去。享年47。
注
参考文献
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