トップQs
タイムライン
チャット
視点
呂号第三十九潜水艦
ウィキペディアから
Remove ads
呂号第三十九潜水艦(ろごうだいさんじゅうくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の5番艦。
Remove ads
艦歴
1941年(昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画)[1]により、1942年(昭和17年)8月8日、三菱重工業神戸造船所で起工。1943年(昭和18年)3月6日進水。1943年9月12日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。
11月25日、第11潜水戦隊は第六艦隊所属となる。
12月28日、呂39は舞鶴を出港し[4][5]、1944年(昭和19年)1月6日にトラックに到着[5]。17日、特設潜水母艦平安丸(日本郵船、11,616トン)に横付けして補給を行ったのちトラックを出港し、ウォレアイ環礁周辺海域に進出[4][5]。
30日、ウオッゼ北東200浬地点に進出した米機動部隊の迎撃に向かうよう命ぜられる。2月1日、ウオッゼ環礁、マロエラップ環礁の航空機搭乗員の救助を命ぜられる[5] [注釈 1]。2月2日、ウオッゼ付近で敵に発見されたとの緊急通信を最後に消息不明[1][5]。
アメリカ側記録によると、同日夜、ウオッゼ付近で米駆逐艦ウォーカー(USS Walker, DD-517)がレーダーで浮上している潜水艦を探知し、照明弾を発射して潜水艦を照らし出した。すると潜水艦は緊急通信を発信した後急速潜航していった。ウォーカーは潜航した潜水艦をソナー探知して追尾し、その後爆雷攻撃を行い潜水艦を撃沈した。これが呂39の最期の瞬間であり、第34潜水隊司令・清水太郎大佐、艦長の館上陸太少佐以下乗員70名全員戦死[5]。沈没地点はウオッゼ付近、北緯09度24分 東経170度32分。
3月5日、ウオッゼ方面で亡失と認定され、4月30日に除籍された。
Remove ads
歴代艦長
艤装員長
- 不詳
艦長
- 館上陸太 少佐:1943年9月12日 - 1944年2月4日戦死[2]
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads