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国際連合安全保障理事会議長

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国際連合安全保障理事会議長
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国際連合安全保障理事会議長(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかいぎちょう、英語: President of the United Nations Security Council)は、国際連合安全保障理事会(国連安保理)の統率責任者である。15か国の理事国が1か月交代の持ち回りで議長国を担当し、議長国の代表団団長が国際連合安全保障理事会議長と呼ばれる。議長は、理事会の行動を調整し、政策論争を決定し、対立するグループ間の仲介者として機能する。1946年の設立以来、議長国は毎月交代している[1]

概要 所属機関, 所在地 ...
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役割

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国際連合本部ビル内の国際連合安全保障理事会議場

議長は、安保理の手続規則および慣例に基づく責任を負う[2]。議長の役割には、会議の招集[3]、暫定議題(事務総長が提案する)の承認[4]、会議の司会[5]、政策に関する問題の決定[6]、危機の監督などがある。議長には、議長声明英語版[7](理事国間のコンセンサスを前提とする)と留意事項[8](安保理全体で追求できるように意思表明を行うために使われる)[9]の両方を発表する権限がある。また、議長は安保理の声明を報道陣に対して発表する。議長は安保理の「顔」であり、スポークスマンであるとみなされている[10]。議長は紛争当事者に対して「自制」を求めることができる[11]

議長は、他の国連機関や国連加盟国に対して安保理を代表する。また、加盟国に発言を求め、国連加盟申請国を安保理の委員会に送り、投票順序を決めることができる[12]。特に冷戦終結後は、歴代の議長は安保理と他の国連機関との調整に努めてきた[13]。議長には、議事進行上の問題英語版を裁定する権限があり、それに対し他の理事国からの異議があれば採決が行われる[11]。議長は、安保理の補助機関のメンバーを指名し、秩序を維持する責任を負う[14]。2000年11月以降、議長は議論される問題についての背景文書を作成することになっている[15]

議長はまた、自身の国家の代表でもある。自国が安保理の議論の対象となる紛争の当事国となった場合には、一時的に議長を退任する[14]。逆に言えば、議長国は月替わりで交代することになっているため、全ての理事国が自国にとって重要な問題を重点的に扱うことができる[16]。議長は、議長としての発言と、その国の代表としての発言を区別することが多い[17]

通常、非常任理事国には、2年の任期中に1回か2回、議長国の順番が回ってくる。例外として、ブルキナファソは1984年8月にオートボルタ(Upper Volta)からブルキナファソ(Burkina Faso)に国名を変更したことにより、任期中に3回議長国を務めた[18]

シエラレオネ代表として安保理議長を務めたデビッドソン・ニコルは、次のように書いている。

議長の役割は誇張されるべきではないが、理事会の活動、その評判、そして国連の評判は、世界の平和と安全に責任を負う機関を主宰する人物の器とスタイルに非常に大きく影響される……。安全保障理事会は、国連が世界の平和と安全を維持し強化するための要である。議長の主な役割は、安保理をこの崇高な目標に向けて効果的かつ迅速に導くことである[19]
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選出と任期

国際連合憲章で安保理議長について触れられているのは、第30条において、安全保障理事会は「議長の選出方法を含む」手続規則を定める権限を有すると規定している1箇所だけである[20][21]。安保理は、1946年1月17日の第1回会合で、議長の選出方法に関する「手続規則18」を採択した。

議長国は、安保理理事国(1946年当時は11か国。現在は15か国)の間で毎月交代する。持ち回りの順番は、国名の英語での正式名称のアルファベット順で決定する[注釈 1]。この規定により、最初の議長国はオーストラリアとなった[22][23][12]。このような持ち回り制は、あらゆる国連機関の中でも特異なものである[16]

任期は毎月17日に始まり、翌月16日に終わると当初は規定されたが、1946年12月にオーストラリアが提案した変更によって任期が延長され(安保理決議14)、議長国は毎月1日に交代することになった。

安保理議長は、国連機関の長の中で唯一選挙で選出されない[22][24]

安保理議長は議長国の常駐代表英語版国連大使)が務めるのが通例であるが[12]、厳密には、議長職は国家に与えられるものであって、個人に与えられるものではない[16]。例えば、アメリカ合衆国が議長国を務めた2000年1月[25]副大統領アル・ゴアが数日間、アメリカ国連代表団の団長を務めた。よって、その間に開かれた安保理会合ではゴアが議長を務めた[26]。この例を含め、各国の首脳が安保理議長を務めた例は過去に6回ある[27]。議長を含む全ての理事会出席者は、自国の元首・首脳・外務大臣のいずれかが発行した信任状を事務総長に提出しなければならないが、代表が首脳または外務大臣自身である場合は例外である[28]

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歴史

要約
視点

1981年、元外交官で国連について研究していたシドニー・D・ベイリー英語版は、安保理の歴史を1946年から1955年まで、1956年から1965年まで、1966年から1981年までの3つの時代に分けて説明した。第一の時代において、議長は安保理に諮ることなく独断で行動することが多かった。第二の時代には、安保理は冷戦に関する問題にはあまり関与せず、「(事務総長の)ダグ(・ハマーショルド)に任せる」という方針を採用した。第三の時代では、議長が正式な会議を開く前に非公式な会合を開いて事前に問題を協議するようになり、議事が効率的になった[29]

初期の歴史

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ドミトリー・マヌイリスキー

1947年から1948年に渡って、安保理はイスラエルの独立とそれに続く第一次中東戦争に関与していた。1948年7月は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国が安保理の議長国を務めていた。7月7日、安保理は国連の仲介者の要請を受けて会合を開き、安保理が中東和平を促進すべきかどうか検討した。安保理はこれまでも、アラブ高等委員会英語版パレスチナ・ユダヤ機関英語版の代表を召喚してこの問題を討議していた[30]。議長のウクライナ代表ドミトリー・マヌイリスキーは、ユダヤ機関を「イスラエル国家の代表」として扱っていた。しかし、当時の安保理はイスラエルを正式に承認していなかった。ほとんどの理事国がマヌイリスキーの行動を批判し、アメリカだけが支持していた。これを受けてアラブ高等委員会は会合への出席を拒んだため、安保理での交渉が中断した。歴史家のイシュトヴァン・ポガニーは、「議長は自国政府の目的の推進のために意図的に職権を濫用した」と考察している[30]

1948年、安保理議長は非公式に何度か外交交渉を行った。最初は1948年1月で、ベルギー代表の議長がインドとパキスタンに対し「国連憲章に反する、自体の悪化を招くようなあらゆる行動を慎む」よう要請した。同年4月、コロンビア代表の議長がユダヤ機関およびアラブ高等委員会の代表と会談し、和平の可能性について話し合つた。同年末、アルゼンチン代表の議長が「ベルリンの通貨と交易に関する技術委員会」を設置した[31]。シドニー・D・ベイリーは、1950年に議長国のソ連が「朝鮮半島に関する討議中に、党派的な目的のために理事会の手続きを操作した」と書いている[32]

議長が安保理を代表して正式に外交交渉を行ったことは何度もある。1957年2月、安保理の要請を受けた議長のスウェーデン代表グンナル・ヤリングフランス語版は、インド・パキスタン関係に関する報告書を作成した。ヤリングは両国と協議し、意見の相違点を解決するための策を検討したが、合意には至らなかった。議長に対するこのような外交交渉の要請は1970年代以降にはほとんど行われていない。議長はまた、安保理の要請に応じて非公式な交渉の管理も行う[31]

その後の歴史

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議長を16回務めた蔣廷黻

1976年3月31日、南アフリカによるアンゴラ侵攻についての会議は深夜まで続き、会議中に日付が変わって4月1日になった。3月の議長を務めていたベナン代表のトーマス・S・ボヤは、月が変わったので、4月の議長国である中国に議長を交代したいと述べた。その結論が出る前にこの会議は終了したが、これ以降、月が変わるのと同時に議長が交代するのが通例となった。2010年5月31日にも同様のケースがあり、6月1日になるのと同時に、議長がレバノン代表のナワフ・サラム英語版からメキシコ代表のクロード・ヘレル英語版に交代した[24]

ルワンダ虐殺中の1994年、9月にルワンダが議長国を務めるはずだったが、ルワンダ代表は7月14日から安保理の会議に出席していなかった。8月25日、9月の議長国はルワンダの次のスペインが務めることを決定した。9月16日にルワンダ代表が安保理の会議に出席したため、12月にルワンダが議長国を務めることを決定した[18]。この他、議長国を他の国に譲ることは何度か行われている。1950年1月10日から12日まで、中華民国代表がキューバに譲ったのが最初である。その後、1947年にアメリカ、1950年に中華民国、1951年にインド、1956年にレバノン、1968年にイギリスが議長国を他国に譲っている。1993年11月10日、カーボベルデ代表のホセ・ルイス・ヘスス英語版は、国際司法裁判所の選挙に立候補したため、議長を中華人民共和国に譲った。1994年12月15日、ルワンダ代表はアルゼンチンに議長国を譲った。米ソ両国は、冷戦時代にはアメリカがソ連に、コンゴ動乱のときにはソ連がアメリカに、議長を譲るよう要請したが、いずれも拒否されている[33][34]

1980年9月の議長だったチュニジア代表のタイエブ・スリムフランス語版は、イランイラクに対して、「あらゆる武力活動、および危険な状況を悪化させる恐れのあるあらゆる行為を中止し、平和的手段によって紛争を解決する」ことを要請した[11]

2010年の留意事項によって安保理議長の機能が見直され、透明性を高めることに主眼が置かれた。このような改革の取組には1990年代から始まっていた[35]。その他、戦争発生中には議長の任期の延長を認めるなど、様々な改革が行われてきた[36]

特に常任理事国には、安保理議長を何度も務めている人物がいる。最多は中華民国代表の蔣廷黻の16回、次がソ連代表のヤコフ・マリクの10回である[37]

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歴代議長

要約
視点

1946年 - 1949年

1946年から1949年までの歴代議長[38]

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1950年 - 1954年

1950年から1954年までの歴代議長[39]

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1955年 - 1959年

1955年から1959年までの歴代議長[39]

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1960年 - 1964年

1960年から1964年までの歴代議長[40]

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1965年 - 1969年

1965年から1969年までの歴代議長[40]

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1970年 - 1974年

1970年から1974年までの歴代議長[41]

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1975年 - 1979年

1975年から1979年までの歴代議長[41]

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1980年 - 1984年

1980年から1984年までの歴代議長[42]

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1985年 - 1989年

1985年から1989年までの歴代議長[42]

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1990年 - 1994年

1990年から1994年までの歴代議長[43]

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1995年 - 1999年

1995年から1999年までの歴代議長[43]

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2000年 - 2004年

2000年から2004年までの歴代議長[25]

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2005年 - 2009年

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2010年 - 2014年

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2015年 - 2019年

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2020年 - 2024年

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2025年 - 2029年

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脚注

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関連項目

外部リンク

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