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イエメン
西アジアの国 ウィキペディアから
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イエメン共和国(イエメンきょうわこく、アラビア語: الجمهورية اليمنية)、通称イエメンは、中東の共和制国家である[3][4]。アラビア半島南端部に位置し、インド洋上の島々の一部も領有している。首都はサナア[3]。
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- イエメン共和国
- الجمهورية اليمنية
-
(国旗) (国章) - 国の標語:الله، الوطن، الثورة، الوحدة
神、国家、革命、団結 - 国歌:الجمهورية المتحدة
連合共和国 -
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国名
正式名称は、الجُمْهُوْرِيَّةُ اليَمَنِيَّة(ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-Yamanīya)。アラビア語略称はاليَمَن(al-Yaman, アル=ヤマン)。 公式の英語表記は、Republic of Yemen。通称Yemen。国民・形容詞ともYemeni。
漢字表記は、也門。国名はアラビア語で右を意味するヤマン (يَمَن、yaman) から由来する。アラビア半島の南部に位置するため、朝日が上る東に向かって南側の地域と考えられた。一方、大部分が砂漠地域の中にあってイエメンの肥沃さを表すユムン (yumn) に由来するという説もある。古代ローマ人は「幸福のアラビア」と呼んでいた[4]。
歴史
要約
視点
→詳細は「イエメンの歴史」を参照
→「ジャーヒリーヤ」および「イスラム教スンニ派王朝一覧#アラビア半島」も参照
交易による繁栄
- 古代 - 交易の中心地、および物資集散地として繁栄。古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア (Arabia Felix)」として知られる(サバア王国、early 1st millennium BC)。
- 紀元前8世紀ごろ - ハドラマウト王国(紀元前8世紀 - 3世紀)が繁栄。
- 紀元前7世紀ごろ - サバア王国が、農耕の発達や、インド産香料の中継貿易によって繁栄。アウサーン王国の都市がサバア王国によって破壊された。
支配者の激しい入れ替わり
イスラム教の流入
- 7世紀 - イスラム教が流入。
- 9世紀 - ズィヤード朝が成立。ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。
- 11世紀 - スライフ朝(1047-1138年)
- 12世紀- ズライ朝(1138-74年)をトゥーラーン・シャー(1174年-1180年)が滅ぼし、彼と父ナジムッディーン・アイユーブを同じくする弟サラーフッディーンを始祖とするアイユーブ朝の支配を受ける(1174-1229年)
- 13世紀 - ザイド派(シーア派の一派)のイマームを祖とする(en:Imams of Yemen)が成立。
- 14世紀 - Al Kathiri (Hadhramaut) 王家が成立、近年まで存続。
- 15世紀 - ラスール朝(1229-1454年)が紅海・アラビア海・インド交易の拠点として繁栄する。同王朝に鄭和の艦隊が来航
一度目のオスマン帝国の支配
南部のイギリスの植民地化
二度目のオスマン帝国の支配
イエメン王国成立
イエメン王国崩壊
- 1962年 - 軍事クーデターにより、イエメン王国が崩壊。イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(~1970年)。
- 1963年 - アデン保護領を南アラビア保護領(1963年 - 1967年)に改称。
- 1965年 - アル=マフラ県に隣接するオマーンのドファール地方で、南イエメンが支援するDhofar Liberation Front(DLF)によるドファールの反乱(1962年-1976年)が激化。

英領南アラビア独立
- 1967年 - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国(1967年 - 1990年)として独立。後にイエメン人民民主共和国へ改称。
- 1989年11月30日 - アデン合意により南北統一への途が開かれる。
南北統一
- 1990年5月22日 - イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)が合併(イエメン統一)し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていたアリー・アブドッラー・サーレハが務めることになる。
南部での再独立を求める反乱
初の大統領選挙
アルカーイダによる襲撃
イエメンでアラブの春発生
2015年内戦
→詳細は「イエメン内戦 (2015年-)」を参照

2023年パレスチナ・イスラエル戦争
紅海を航行する船舶への攻撃
2023年パレスチナ・イスラエル戦争が始まると、フーシは紅海を航行するイスラエルに関連する船舶に攻撃を加えることを発表[28]。実際に船舶の拿捕やドローン、ミサイルなどを使用した攻撃を開始した[29]。同年12月18日、アメリカは「繁栄の守護者作戦」と称して、アメリカと有志国による多国籍部隊で紅海の巡回を開始することを発表[30]したが、フーシによる船舶攻撃は続けられた[31]。 2024年には、アメリカとイギリスにより、国内の軍事施設などに対しミサイル攻撃(2024年のイエメンへのミサイル攻撃)が行われた。
イスラエルとの軍事的応酬
2024年、フーシはイスラエルの各都市に対して断続的に弾道ミサイルを発射。イスラエルはミサイルの大半を撃ち落としたが、住民を疲弊させることには成功した[32]。これに対しイスラエルも反撃、イエメンの各都市が爆撃にさらされた。同年12月26日には、サヌア国際空港などが空爆にさらされ、世界保健機関のテドロス・アダノム事務局長を巻き込んだ(本人は無事)[33]。
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政治
→詳細は「イエメンの政治」を参照
イエメンは、アラビア半島諸国において唯一共和制をとる立憲国家である。現行憲法は1991年に発布され、1994年および2001年に改正されたものである。民主化に強い意欲があり、言論の自由も認められているとされるが、サーレハ政権下ではサーレハ個人や一族に対する批判は認められておらず、厳しい取締りを受けていた。2014年2月11日には連邦制を正式に採択し、連邦国家へ移行する予定である。これは、旧南イエメン地域の分離運動を抑える狙いもある[34]。
国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は7年で、3選禁止。その権限は強大で、形式上も事実上も国家の最高指導者である。副大統領と首相は大統領により任命される。
内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の助言に基づき大統領が任命する。
議会は二院制で、諮問評議会(111議席)と代議院(301議席)から構成される。諮問評議会議員は全員が大統領による任命制。代議院議員は国民の直接選挙で選出され、任期は6年。ただし、諮問評議会に立法権は無く、大統領の政策に対する助言機関に過ぎないことから、イエメン議会は実質的に立法権を行使しうる代議院人民代表院のみの一院制であるとする説もある。
主要政党には旧北イエメン与党でアリー・アブドッラー・サーレハ大統領率いる国民全体会議、旧南イエメンの政権党であったイエメン社会党、そしてイエメン改革会議の3党がある。
人権
→詳細は「イエメンにおける人権」を参照
イエメンには女児の結婚最低年齢に関する法律がない。これはイエメンは女子の結婚最低年齢に関して、イスラーム法上一般的な9歳という解釈を取っていない為である。そのため、イランやサウジアラビアなど、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されている[35]。飲酒・強姦などをした場合、公開鞭打ちを執行された事例もある。
2009年には、17歳未満の結婚を禁止する法案が提案されたが、保守派の反対にあって不成立となっている。2013年9月、40歳の男性と結婚した8歳の少女が、新婚初夜の性行為の最中に子宮破裂などの臓器損傷を負い、死亡したと報道された。現地警察などの調査では、関係者はこの報道について否定したが、イエメンの人権担当大臣は未成年の結婚を禁止すると明言した[36]。
WTF(世界経済フォーラム)は2019年12月17日に世界153カ国を対象とした『男女格差』の2019年版を発表し、イエメンが最下位となっている[37]。
国際関係
→詳細は「イエメンの国際関係」を参照
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日本国との関係
→詳細は「日本とイエメンの関係」を参照
アメリカとの関係
2023年、フーシ派が紅海上で船舶の拿捕や攻撃を開始。これに対してアメリカ合衆国は繁栄の守護者作戦として、紅海上で多国籍部隊による巡回活動を開始[38]。さらに複数回にわたりフーシ派の拠点に対して空爆を加え[39][40]るなど事実上交戦状態となった。2025年6月9日、アメリカ合衆国は安全上の理由からイエメン国民に渡航制限を課し、僅かな例外を除きアメリカへの入国ができなくなった[41]。
軍事
→詳細は「イエメン軍」を参照
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地理
→詳細は「イエメンの地理」を参照

アラビア半島の南西、北緯12度から20度に位置する。紅海、アデン湾、アラビア海に面し、北でサウジアラビア、東でオマーンと国境を接し、アデン湾、紅海を挟んでソマリア、ジブチ、エリトリアに対面する。本土以外にソマリアの沖にあるインド洋のソコトラ島 (3625km2) なども領有している。面積は約52万8000km2。首都はサナア。地理学的には4つの地域に分けられる。紅海沿岸、西部山地、東部山地、北のルブアルハリ砂漠である。ティハーマと呼ばれる紅海沿岸部は非常に乾燥しており、山地から流れる川は見られずワジあるいは地下水になっている。西部山地は降水量が大きいため段々畑で農業が営まれる。ソルガムが主で、綿花とマンゴーなど果実も栽培される。昼夜の気温差が大きい。東部は標高2000mで、さらに気温差が大きく昼間30℃、夜間0℃となる。大麦や小麦が栽培される。ルブアルハリ砂漠ではベドウィンがラクダの遊牧を行っているだけである。
イエメン最高峰の山は標高3,666 mのナビー・シュアイブ山でアラビア半島最高峰となっている。
- サナア
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地方行政区分
→詳細は「イエメンの行政区画」を参照

- アデン県 ('Adan)
- アムラーン県 ('Amran)
- アビヤン県 (Abyan)
- ダーリウ県 (Ad Dali')
- バイダー県 (Al Bayda')
- フダイダ県 (Al Hudaydah)
- ジャウフ県 (Al Jawf)
- マフラ県 (Al Mahrah)
- マフウィート県 (Al Mahwit)
- サナア (首都) (Sana'a)
- ザマール県 (Dhamar)
- ハドラマウト県 (Hadramaout)
- ハッジャ県 (Hajjah)
- イッブ県 (Ibb)
- ラヒジュ県 (Lahj)
- マアリブ県 (Ma'rib)
- ライマ県 (Raymah)
- サアダ県 (Sa'dah)
- サナア県 (Sanaa)
- シャブワ県 (Shabwah)
- タイズ県 (Ta'izz)
- ソコトラ県(Soqatra)
主要都市
→「イエメンの都市の一覧」も参照
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経済
→詳細は「イエメンの経済」を参照

1人当たりの国内総生産は2013年で1,516ドルと産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低く[2]、失敗国家や後発開発途上国にも挙げられている。2007年の失業率は40%。1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、LNGを輸出している。
モカコーヒーのモカは、南部にありコーヒー豆を生産する港湾都市ムハーに由来する。しかし砂漠地帯であるため農業は振るわず、昔ながらの遊牧を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。近年は石油開発で発展する隣国のサウジアラビアに出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。
南部の都市アデンは古来、交易で賑わったが1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。内戦後にイエメンはIMFや世界銀行の支援を受け、経済発展に取り組んでいる。
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国民
→詳細は「イエメンの人口統計」を参照
人口は2023年時点で3444万9,825人、1994年の1267万人から3倍近い増加を示している。アラブ人が98%でアラビア語を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。2050年には人口6000万人まで増加するとされている。
言語
現代標準アラビア語がイエメンの公用語である。各地域の言語としてアラビア語の各方言(北イエメン方言、南イエメン方言、ハドラマウト方言)およびマフラ語、ソコトラ語、ホビョト語、バトハリ語、ラジフ語がある。
宗教
→詳細は「イエメンの宗教」を参照
→「イエメンのイスラム教」も参照
国民ほぼ全てがイスラム教信者で、スンナ派が5割強、シーア派が4割弱である。シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つザイド派であるが、十二イマーム派も少数派ながら一定の勢力を持つ。
教育
→詳細は「イエメンの教育」を参照
イエメンの教育は日本同様小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である[42]。
交通
→詳細は「イエメンの交通」を参照
文化
要約
視点
→詳細は「イエメンの文化」を参照
食文化
→詳細は「イエメン料理」を参照
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生活様式


国民のほとんどがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。ただし、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある。
一般的な成人男性は、腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している。この短剣は所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。実用面よりもシンボルとしての性格が強いため、刃が研がれていないことも多く日常的に使用することはない。都市部ではスラックスにワイシャツ姿の男性も多く見かけるが、その場合でも多くの男性は自宅に自分のジャンビーヤを持っている。
女性のイスラム服の着用の程度はイスラム復興などの社会傾向の影響も受けるが、イエメンの女性は一般的に他のイスラム国と比較して着用率が非常に高い。女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用しているが、サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられているわけではない。またスカーフの色も比較的自由である。これは個人やその家族の信仰の深さによって判断されるためで、信仰が深くなればそれだけ肌を隠す面積も多くなる。女性の社会進出は主に都市部で少しずつ進みつつある。
イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる植物の葉を噛む習慣が広く行われている。児童の就学率は約50%程度であり、学校に行けない子供のためにテレビ(衛星放送)による教育も試みられている。現存する最古の都市とされるサナア旧市街は世界遺産に登録されている。
→「イエメンのマスメディア」および「イエメンの世界遺産」も参照
祝祭日
→詳細は「イエメンの祝日」を参照
スポーツ
→詳細は「イエメンのスポーツ」を参照
→「オリンピックのイエメン選手団」も参照
- サッカー
イエメン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。1990年にはサッカーリーグのイエメンリーグが創設された。しかしイエメンクーデターとその後の内戦により、2014-15シーズン以降リーグ戦は行われていない[43]。リーグの最多優勝クラブはアル・アハリ・サナア。
イエメンサッカー協会(YFA)によって構成されるサッカーイエメン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。AFCアジアカップには2019年大会で念願の初出場を果たしたが、グループリーグ3戦全敗となり最下位で敗退した[44]。
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著名な出身者
→詳細は「Category:イエメンの人物」を参照
脚注
関連項目
外部リンク
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