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土井武夫

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土井武夫
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土井 武夫(どい たけお、1904年明治37年〉10月31日 - 1996年平成8年〉12月24日)は、日本の航空機技術者・設計技師、教授山形県山形市出身。日本の航空機技術発展に寄与した一人。川崎航空機川崎重工業)の要職を歴任し、戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発などを担当した。

概要 土井 武夫 どい たけお, 生誕 ...
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略歴

要約
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川崎航空機(川崎重工業)に入社

1904年(明治37年)、山形県山形市に10人兄弟の7番目として生まれる[1]

1924年(大正13年)、山形高等学校理科甲類(現: 山形大学理学部)卒。

1927年(昭和2年)、東京帝国大学工学部航空学科卒[2]。同期には堀越二郎木村秀政らがいた[3]。同4月、川崎造船所飛行機部(後の川崎航空機。現: 川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)に入社し[4]、整備工の下積みから始める。同社がドイツより招聘したリヒャルト・フォークトRichard Vogt)博士に師事して九二式戦闘機などの設計に携わり[5]水冷式エンジン搭載型戦闘機の実用化に成功する[6]

1931年(昭和6年)、フォークトの推薦によりドイツに出張[7]クラウディウス・ドルニエドルニエ社創業者)、グスタフ・ラッハマンハンドレページ社研究部長)、ハインリヒ・フォッケフォッケウルフ社創業者)、アレクサンダー・リピッシュデルタ無尾翼機の第一人者)ら、そうそうたる面々の科学者たちと面会し、見識を広める。

イギリスイタリアフランスなど他の工業先進国も視察し、特にイギリス・ダウティ社の技術に着目。同社の製品を、九二式戦闘機の降着用車輪として採用したエピソードがある。これが当時存続の危機にあった同社を救い、後のダウティ・グループの興隆のきっかけとなったと言われている。

1932年(昭和7年)10月末、ドイツから帰国。翌1933年(昭和8年)から単独の設計主務に就き、1942年10月には設計部長に昇進[8]。主に日本陸軍機の設計に従事した。

特に、液冷式エンジン搭載型の三式戦「飛燕」や、空冷式に改良した五式戦闘機は主力機に採用され[9]九九双軽二式複戦「屠龍」など[10]双発機の開発にも貢献した。また創意工夫と最先端技術を追求し、エンジン2基を串型に搭載した二重反転プロペラ機「キ64」を試作している。

戦後

終戦直後の1945年8月下旬、川崎航空機から解雇される。GHQからの指示により川崎が設計した航空機の図面や説明書等をまとめて提出。

1年ほど後、戦時中の知り合いであったドイツ人技師と出会い、戦争で帰国できなくなっていたドイツの高級船員たちで構成されたゼーオーで1年半ほど働くこととなる。ドイツ人が強制送還されてからは土井が後を継ぎ、トレーラーや電気自動車などを製造していたが、1949年ドッジ・デフレの影響で従業員を解雇する際、自らも退社した[11]

1950年10月、古巣の系列会社・川崎製鉄に勤務し、1957年より技術顧問として川崎航空機に復帰[12]。さらに日本航空学会(現: 日本航空宇宙学会)に評議員としても籍を置き[13]名古屋大学工学部航空学科で講師も務めた[14]

1950年代半ば、国家プロジェクト「輸送機設計研究協会(後の日本航空機製造株式会社)」が発足。同協会に出向して艤装主任に就き、難儀な箇所である電装系にも携わった。そして1960年代、戦後初の国産輸送機/旅客機YS-11」の開発に貢献する[15]。後進育成の他、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の取得の審査で指摘された問題について解決策を提案している[16]。これらの功績を表彰され、政府より科学技術長官賞を受けている。そして、ロッキードP2V-7をベースにした改良機「P-2J」の設計が最後の仕事となった。

1966年(昭和41年)4月から、名城大学理工学部の教授に就任。交通機械学科長や学生部長を務め、1977年(昭和52年)3月の定年まで在職した[17]

その後は川崎航空本部の技術顧問に再復帰し、1989年(平成元年)には回想録『航空機設計50年の回想』を執筆。

1996年(平成8年)12月24日、92歳で死去。死後も日本の航空機技術発展に貢献した業績を敬われ、航空博物館などで土井の企画展が開かれている[18]

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設計に携わった主な機体

著作

脚注

参考文献

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