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土佐光茂
室町後期の土佐派の絵師 ウィキペディアから
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土佐 光茂(とさ みつもち、明応5年(1496年)? - 没年不詳)は、室町時代後期の絵師。刑部大輔・土佐光信の子。官位は正五位下・刑部大輔。実子に土佐光元。
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生涯
『地下家伝』[要文献特定詳細情報]に収録された系図の注釈によると、明応5年(1496年)の誕生とされ、これが正しければ、光信60歳代の子になる。大永2年(1522年)から永禄12年(1569年)までの記録が残っており、大永3年(1523年)には既に光信の跡を継ぎ絵所預に補任されており、左近将監を経て、享禄元年(1528年)従五位上、享禄5年(1532年)正五位下・刑部大輔に叙任され、天文年間には従四位下に至った。
天文19年(1550年)5月初めに近江穴太で客死した足利義晴の寿像を描くために下向。この時の体験が、2年後の天文21年(1552年)から弘治3年(1557年)の間に描かれた大徳寺塔頭瑞峯院の「堅田図」(静嘉堂文庫美術館蔵。)や、東京国立博物館の断片2幅に生かされたと考えられる[要出典]。また、六角氏の居城観音寺城本丸に「犬追物図」を描き、その模本が伝存する。
『お湯殿の上の日記』の永禄3年(1560年)6月から12月まで[要文献特定詳細情報]、宮中で源氏物語の「車争図」屏風を光茂に描かせることについて多数の記述があり、仁和寺が所蔵する六曲一双の「車争図」屏風が、この時の作品であると言う説が有力である。この絵では、従来の物語を説明するための「絵解き」から解放され、絵画作品として一つの世界を作り出しており、絵自体の面白さが目立ち、古典を題材とした風俗画に近くなっている。本作と同図の作が後世にも連綿と作られており、このような物語絵の創作と規範化、継承には、光茂の役割は大きかったと考えられる[独自研究?]。
永禄12年(1569年)には織田信長の命により足利義昭邸の障壁画を描いた。同年8月、息子光元が戦死、光茂は絵所領である和泉国上神谷の安堵を求めて、細川幽斎や今井宗久らに働きかけたが叶わなかった。失意の光茂は、弟子の光吉に土佐家代々の記録書や粉本を譲り、光元の遺児3人の養育を頼むと、間もなく堺で亡くなった。
画風は、父・光信がやや粗い筆致と淡い彩色だったのに比べ、人物・風俗の描写が豊かで、色彩も鮮麗になり、明快でより近世的な明るさに溢れる[独自研究?]。また、漢画の力強い描線による造形把握や構図法を取り入れ、水墨画作品も手がけるなど、和漢が混合した様式を作り上げた。
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代表作

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官歴
脚注
参考文献
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