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三条西実隆

室町時代後期~戦国時代の公卿、能書家 ウィキペディアから

三条西実隆
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三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿内大臣三条西公保の次男。官位正二位・内大臣。能書家でもあった[1]

概要 凡例三条西実隆, 時代 ...

経歴

京都武者小路の邸で誕生した。当初の名は公世。

長禄2年(1458年)、兄・実連が死去し、家督相続者として扱われ従五位下に叙され、このとき公延と改名する。2日後に侍従に任官。寛正元年(1460年)、父・公保が死去する。このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。

応仁元年(1467年)、京都応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開。乱により三条西邸も焼失している。文明元年(1469年)、元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。永正3年(1506年)、内大臣となるが在職わずか2か月、任大臣大饗も開かずに致仕。永正13年(1516年)に出家。

人物

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三条西実隆像紙形[2]
土佐光信筆

後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門の寵妃や、後柏原の女御で後奈良の生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。

室町幕府将軍の足利義政足利義澄若狭国守護武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から小倉懐紙の鑑定を依頼されたことが『実隆公記』にみえる。また、連歌師の山崎宗鑑とも親しく交友した。武野紹鷗茶道を教え、大和国国人十市遠忠に和歌を教えるなど、貴族に多大な影響を与えた[3]将棋囲碁にも熱中し、将棋の駒の字も書いた[4]

また、周防国大内義隆駿河国今川氏親とも親交が深かった。なお、実隆には当時としては珍しく側室がいなかった。

漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。源氏物語に関しては、系図として革新的な『実隆本源氏物語系図』を作った他、子・公条が『明星抄』を著す基礎も作った。浄土宗を信仰していた。

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系譜

伝記・研究

参考文献

同書は青空文庫に収録されている[6]

脚注

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