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垣内重恕
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垣内 重恕(かきうち しげ?)は江戸時代中期の豪農。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第7代。
生涯
享保2年(1717年)[1]紀伊国栖原垣内家第6代垣内繁福の三男として生まれた[2]。幼名は三九郎で、後に弥市と改めた[2]。兄2人が夭逝したため家督を継ぎ、太郎兵衛(弥太郎兵衛[3])と称し、父に従い江戸の店舗に勤務した[2]。
享保20年(1735年)父が死去すると[4]、家業は弟垣内繁安に任せて帰郷し、山で狩りを楽しんだ[2]。房総半島近海の漁業が衰退し、商業も不振となると、先祖垣内武行に倣って農業を再興し、吉川村に山林藪沢を購入して蜜柑・綿花を栽培し、叔父垣内嘉広とも協力して家業を立て直した[2]。老後、重兵衛(十兵衛[3])と改称した[2]。
天明8年(1788年)2月23日72歳で死去し、施無畏寺に葬られ、了順居士の法号を与えられ[3]、甥垣内忠質の依頼による[5]亀田鵬斎撰・書の墓碑が建てられた[3]。子がなかったため、弟繁安が跡を継いだ[3]。
人物
親族
脚注
参考文献
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