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堤信遠
平安時代後期の武士 ウィキペディアから
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略歴
勇士として知られ[1]、一族の[3]伊豆国目代山木兼隆の後見人となり、山木館の北側に屋敷を構えた[4]。信遠は伊豆国の田方郡を根拠としており、兼隆が一時的に伊豆へ配流されていた折から結びついていた。同じ田方郡には北条時政も本拠としており、流人の境遇であった源頼朝を庇護していた。田方郡の支配を巡る信遠と時政の対立に加え、それぞれが庇護する流人である兼隆と頼朝の対立、という二重の対立要素があったと考えられている[5]。
治承4年(1180年)8月17日未明、頼朝が北条氏・佐々木氏らを従えて山木館襲撃のために挙兵すると、兼隆とともにその標的となる[1]。佐々木定綱・高綱が北条氏の雑色源藤太の案内を受けて信遠邸を包囲し、佐々木経高が前庭に侵入して頼朝挙兵の嚆矢となる一矢を放った[1]。信遠は太刀を取って経高と戦ったものの経高の射た矢を受け、突入してきた定綱・高綱の加勢もあってついに討たれた[1][2]。
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脚注
参考文献
関連作品
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