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塩屋鯯魚

飛鳥時代の豪族 ウィキペディアから

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塩屋 鯯魚(しおや の このしろ)は、飛鳥時代豪族。塩屋小戈と同一人物だとする説がある。

概要 凡例塩屋鯯魚, 時代 ...

経歴

後述の遺言からして、からくりを作る者ではなかったのか、と『日本書紀通証』(谷川士清)にある。

新撰姓氏録』「河内皇別」によると、「塩屋連」は葛城襲津彦の子孫であるらしい。

鯯魚の名前が初めて登場するのは、大化2年3月(646年)のことである。このとき、孝徳天皇東国朝集使を集めて詔をし、その中で、「獄中の囚人の解放せよ、とりわけ6人は天皇に恭順の心を示しているため、その心を讃美する」と述べた。この6人の中に「塩屋鯯魚」の名前がある[1]

斉明天皇4年11月9日(658年)、鯯魚は有間皇子の陰謀に加担したとして、守君大石(もり の きみ おおいわ)、坂合部連薬(さかいべ の むらじ くすり)らと共に捕らえられ[2]、2日後の皇子の処刑と同時に紀伊国藤白坂(現和歌山県海南市内海町藤白)で、随伴した皇子の舎人、新田部米麻呂(にいたべ の こめまろ)と共に斬刑された。殺されるに当って、

「願はくば右手(みぎのて)をして、国の宝器(たからもの)作らしめよ」

と叫んだ、と伝えられる[3]

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脚注

参考資料

関連項目

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