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大モーリタニア

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大モーリタニア
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大モーリタニア英語: Greater Mauritania)は、モーリタニア民族統一主義者が用いる概念である。 その領域は西サハラの他に、サハラ砂漠西部のムーア人サフラウィ人英語版の居住地域を含む。

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大モーリタニアの領域

歴史

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1978年のモクタル・ウルド・ダッダ初代大統領
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大モロッコの領域

1957年、後にモーリタニアの初代大統領になるモクタル・ウルド・ダッダが、スペイン領サハラを指して最初にこの言葉を用いた。

1960年、モーリタニアが独立を果たしたが、モロッコは承認しなかった。

1969年、モロッコとの間に国交が結ばれた[1]

1970年スペインが植民地を放棄し、再び大モーリタニアの主張が広まった。 モロッコが大モロッコを目指して国境を南下させる事をモーリタニアは恐れた。 この「大モロッコ」は、西サハラだけでなくモーリタニア全土も統合する概念である。 西サハラはモロッコとモーリタニアで分割統治を始めた。

1973年、独立を目指す住民がポリサリオ戦線を結成した。 後にアルジェリアリビアの支援を受ける。

1975年国際司法裁判所は、西サハラの住民に民族自決権を認め、

  1. モロッコへの併合
  2. モーリタニアへの併合
  3. 独立国家

の3つの選択肢から望むものを選べるとした[2]

1976年サハラ・アラブ民主共和国が建国されたが、アルジェリアアルジェに拠点を置く亡命政府だった。

1978年、モーリタニアはポリサリオ戦線に敗れ、ダッダは失脚した[3]

1979年、モーリタニアは西サハラへの領土主張を撤回し、ポリサリオ戦線を正当な代表と認めた。 モロッコとの関係は急速に悪化し、クーデターを仕掛けられた事から、ポリサリオ戦線やアルジェリアに接近した。

後にモーリタニアはサハラ・アラブ民主共和国と正式な国交を結ぶ[4]

現在のモーリタニアでは、どの主要政党も大モーリタニアを目指しておらず、国民も求めていない。 引き続きサハラ・アラブ民主共和国を承認しているが、モロッコとの関係も修復した。 現在は未解決の西サハラ問題からの撤退を目指している。

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関連項目

脚注

参考文献

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