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大伴狭手彦

6世紀中頃(古墳時代後期)の豪族 ウィキペディアから

大伴狭手彦
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大伴 狭手彦(おおとも の さてひこ[1])は、古墳時代後期の豪族佐弖彦佐提比古郎子とも表記される[1]カバネ大伴金村の三男。『新撰姓氏録』によれば道臣命大伴氏祖)の十世孫とされる。

概要 凡例大伴 狭手彦, 時代 ...

経歴

日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った[2]。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)[3]

これらとほぼ同様の伝えは『日本三代実録』貞観3年(861年)の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという[4]

そのほか、『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている[1]

後裔氏族

新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。

  • 神別 左京 大伴連 - 道臣命十世孫の佐弖彦の後。
  • 神別 左京 榎本連 - 道臣命十世孫の佐弖彦の後。

脚注

参考文献

関連項目

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